2012年1月31日火曜日

デスクワーク


 日本を離れて7か月が経ちました。ドミニカ共和国の病院で働き始めて半年です。ほとんど臨床をしていませんので、臨床を離れてから10か月になろうとしています。一生臨床家として生きていきたいと思っていた私にとっては、辛い日々でした。しかし、最近は少し考えが変わってきました。
 働きやすい職場を作るために、コーディネーターとしてシステム作りやスタッフの仕事管理も大切なんだと思ってきました。また、他部門との連携・連絡、他組織との協力などのネットワーク作りなども非常に重要だと感じています。これができる上司と、できない上司とでは、働きやすさ、働きがいが全く違うと思います。
 この役割を担おうと思うと、スタッフの働き方、熱意、人間関係などを把握しておかないといけないし、他部門と連携しようと思えば、その部門の業務内容、システムなどに精通していないといけないです。本気でこの役割を担うためには臨床を犠牲にしなければならない部分が出てくるでしょう。臨床がメインではなく下のスタッフの相談役になり、普段は管理者・教育者となる役割の人が必要かと思います。今の私の立場のように。でも今の私ではまだまだ力不足です。
 将来、看護師・保健師の資格を取り、そして公衆衛生学を深く学びたいと思っている私は、理学療法部門と看護部門の連携・協力体制の構築を将来行いたいと思っています。理学療法士は看護師の業務について知らな過ぎるし、その逆もまた然りです。双方を知り、お互いが働きやすい、そして患者にもっとも利益のある職場作りをしたい、と最近は考えています。
 なので、今やっているデスクワークの日々、案外、無駄にはならないのかも。

2012年1月9日月曜日

日系社会

カリブ諸国最高峰の山頂から。ご来光。
明けましておめでとうございます。

 戦後、日本政府が行った移民政策により、南米を中心に年間1万人の日本人が海を渡りました。中米の国、ドミニカ共和国にも249家族、1319人が1956年、ぶらじる丸に乗りサントドミンゴ港に到着しました。そのため、ドミニカ共和国には日系社会が存在します。
 しかし、この移民政策によってドミニカ共和国に移り住んだ日本人はみな、非常に苦しい生活を強いられました。事前に聞かされていた条件や環境と大きく異なった移住地だったのです。
  18ヘクタールの土地の無償譲渡のはずが、実際はその3分の1だった
  豊かな土地と言われていた場所は、農業には適さない土地だった
  (粘土質の地面や、塩を含む土地、深刻な水不足)
  土地の所有権は認められず、耕作権のみが与えられた
 などの悪条件により、夢と希望を持って移住してきた日本人は、自らを「日本に捨てられた=棄民」と考えるようになりました。2000年~2006年、移住者は国を相手に訴訟を起こすことになりました。

 「棄民」から「移民、日本人」になるために。

 この訴訟により、国の無責任な政策立案・外交が浮彫になり、国は移住者に対して謝罪、つまり責任を認めました。当時の総理大臣、小泉純一郎氏の談話で、「政府の当時の対応により移住者の方々に多大な労苦をかけたことについて、政府としては率直に反省し、お詫び申し上げます。」とあります。(全文←クリック)
 JICAはドミニカ共和国のドミニカ人社会の発展のために青年海外協力隊およびシニア海外ボランティアを派遣しています。そしてドミニカ共和国の日系人社会の発展のために日系社会青年ボランティアおよび日系社会シニアボランティアを派遣しています。
 私は青年海外協力隊ですが、日本人・日系人の力にもなりたいと思っています。自分の能力を発揮する場をドミニカ人社会に限定する理由はないと思っています。もちろん自分の職務は全うすることを前提としてですが。
 私と日系社会を結びつけてくれた日系社会シニアボランティア(看護師)のKさん(Kさんのブログ←クリック)という方がいます。(私のドミニカ共和国での母です。)来月、日系社会の健康講座のお手伝いをさせていただくことになりました。昨日、そのために、ドミニカ日系人協会の会長の所へご挨拶に伺いました。私のことを受け入れてくださり、今後も協力できることがあれば、協力していくことになりました。
 日本と同様、こちらでも日本人の高齢化が進んでいます。しかし、日本のように医療が発展しているわけではないし、アクセスが容易でなかったりもします。障害がある人には障害の治療を、ない人には長く健康でいてもらうための指導を、Kさんなど保健・医療に携わる人たちと協力して、(今は)地道にやっていきたいと思います。