2011年2月3日木曜日

ナガサキ

 1月31日~2月2日まで、2泊3日でナガサキ・ヒロシマを巡ってきました。目的は、原子爆弾が対人に使われた世界唯一の国である日本について詳しく理解することです。原爆が落とされた順番とは逆ですが、長崎から行きましたので、長崎で学んだことから先に書きたいと思います。
 飛行機で長崎に行き、昼食に佐世保バーガーを食べた後、長崎原爆資料館に13時頃到着しました。予定より遅く到着しました。理由は、めったにないという積雪によるバスの運休です。地元の人いわく、全く雪を見ない年もある、というのに、私が行った日に限って雪が積もっていました。
 さっそく入館料を払い、ノートを取り出し、最初のパネルからじっくり見て回りました。ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、最初から最後まで丁寧に説明してくれました。これには感謝感激でした。閉館までみっちり勉強できました。
 写真でしか見たことがなかった原子爆弾「ファットマン」の実寸大の模型を見て、最初は「意外に大きいなぁ」と思いました。(原爆の威力、恐怖についてあまりにも理解が乏しかった証拠だと思います。)しかし、被害について詳しく知っていくと、「これっぽっちの爆弾で・・・」と感じてきました。ひとつの爆弾が、長崎の人口の半数をも死傷させたと思うと・・・ 一瞬で全てのものを吹き飛ばしたかと思うと・・・ 胸がつまる思いでした。
 その原爆に、皮肉にも日本人が開発した「八木アンテナ」が使われていた、と知るとなんだが切なくもなりました。地上から500mの上空で爆発させるための高度センサーだったそうです。写真は、爆心地から上空を見上げたものです。この上空で八木アンテナが反応して爆破のスイッチが作動したのです。
 近くに長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)があり、ここも被害に遭いました。しかし動ける医師、看護婦は直後から懸命に救護活動にあたったそうです。しかし、次から次へと運び込まれる患者に対して、限りある物資。消毒液やガーゼ、包帯はすぐに底をつき、処置も受けずに帰っていく人々も多くいたそうです。
 救護活動にあたっていた放射線科(当時は物理的診療科と言われていた)の医師、長井隆は原爆投下前から、仕事で大量の放射線を浴びており、慢性骨髄性白血病を発症していました。それでも救護隊として第一線で活躍し、その時のことを多くの著書(17冊)に書き記しています。私は彼に関する資料館へ行き、彼に関する本も購入しました。(この旅でたくさんの本を買いました。)長崎県の第1号名誉市民でもある長井医師のもとに、ヘレンケラーも訪問され手紙を残していったそうです。
 原爆資料館、長井隆資料館、平和公園を見て周り、悲惨な戦争の様子を目の当たりにしました。暗い気持ちになりました。そこで、通常の観光もしてきました。稲佐山の頂上からの夜景や、坂本竜馬の亀山社中跡、長崎港などをオリンパスペン片手に回りました。近々、フォトパス(左コラム参照)にアップしようと思います。

2 件のコメント:

  1. なかなかいい旅じゃないか。ドミニカに出るための準備として必要不可欠。とはいえ、私はまだ長崎の原爆資料館には行ったことなし。亀山社中もしらない。長崎はハウステンボスだけ。ところで、なんとかしなきゃ!プロジェクト、いつ参加したの?やられた。このところ、教え子に、やられた!と思う事が多い。(笑)

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  2. katabira no tsujiさん
     ありがとうございます。本当に勉強になった3日間でした。広島よりも長崎の原爆資料館の方が、見て回るところがたくさんあったイメージです。まだまだ見れていない所もあったので、また行きたいと思います。先生も是非!
     「なんプロ」は発足当初からサポーター登録しました!まだまだ登録数が目標に達していなかったと思いますので、輪を広げないといけないですね。ちなみに、JOCV受験でJICAのホームページを頻回に見ていたので、早くに知ることができました。

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