Brian Davey氏の訃報が届きました。Davey氏は1982年から88年の間、WCPT西太平洋地区の執行委員を務め、その後1988年から91年はWCPTの会長を歴任しました。
Davey氏はニュージーランドのDunedinで理学療法士を目指し勉学に励み、1961年に卒業しました。1975年にはオーストラリア理学療法協会(APA)に入会し、1979~80年はニューサウスウェールズ州支部の支部長を務めました。1980~81年にはAPA会長に就任しています。1992年、理学療法発展に寄与したとしてオーストラリアで勲章を受けています。
Davey氏はニュージーランドのDunedinで理学療法士を目指し勉学に励み、1961年に卒業しました。1975年にはオーストラリア理学療法協会(APA)に入会し、1979~80年はニューサウスウェールズ州支部の支部長を務めました。1980~81年にはAPA会長に就任しています。1992年、理学療法発展に寄与したとしてオーストラリアで勲章を受けています。
1995年から99年にWCPT会長を務めたDavid Teager氏は「Brianは行動力があり、力強いリーダーシップを発揮する人でした。彼の歯に衣を着せないスタイルも、彼のユーモアのセンスで受け入れてもらいやすく、それによりWCPTのガバナンスや活動に影響を与えてきました。
1991年のWCPTロンドン大会の際に行われたレセプションにフィリップ王配を個人的にお連れし、フィリップ王配が世界各国から集まった参加者に彼を紹介したのを覚えています。
BrianとJoyceは心温かなホストでした。彼は自分の家族がいかに自分をサポートしてくれていたか、よく語っていました。私たちは彼らの死を受けて、昔のことを懐かしく思い出しました。」と述べています。
WCPTのMarilyn Moffat元会長(2007~15年)は「Brianは長年、国内外で理学療法に関して大きな影響力を持っていました。彼の死が惜しまれます。彼はラグビー選手をしていた時に一人の開業医との出会い、そこから彼の理学療法人生は始まりました。Dunedinで養成課程に入り、その先は全てが歴史となっていきました。
初めての職場となった病院で研鑽していた時、BrianはRobyn McKenzie氏と出会い、一緒に働こうと声をかけました。Brianもそうしようと動いていた所、Robynは彼に開業を勧め、実際に開業をしました。McKenzieとMulliganとの交流は続き、夜の勉強会にともに参加していると、CyriaxやParisとも知り合うことになりました。Parisは偶然にも、Brianが一年生のときの三年生でした。また他の当時の徒手療法をリードしていく仲間とも出会いました。彼は少しずつシドニーでの臨床を減らしていき、オーストラリアでの理学療法政策へ関わることになりました。その経験からオーストラリア理学療法協会の会長への昇進しました。当時、初めての政治との繋がりを持つ理学療法士となりました。
そこから、1988年に彼はWCPTの会長となり、資源が乏しい国や政策が不十分な国への支援が重要であることを認識し、その20年も後に、私が最も力を注いだ仕事となりました。また、近隣のより大きな組織が、小さな組織を支援する方法についてもBrianは当時から構想を持っていました。会長時代にはアフリカでの影響力も大きかったのがBrianです。」と語りました。
理学療法業界はそんな素晴らしい彼を失ったことを悲しく思います。
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