理学療法士→青年海外協力隊→臨床に戻り基本からやり直す(現在)→大学院?→日本の技術を世界へ
2011年3月11日より発生しました東日本大震災において、犠牲になられた方々に心よりご冥福をお祈り申し上げます。 また被災された方々に対しましては、お見舞い申し上げるとともに、一日でも早くの復興を応援・支援させていただきます。
2016年4月16日より発生しております熊本地震において、亡くなられた方に心からご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにお見舞い申し上げます。

<祝>当ブログの読者Y.Kさんが青年海外協力隊(24-1 モンゴル)に合格した、という非常に嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>当ブログの読者で青年海外協力隊を目指すMIDORIさんが理学療法士国家試験に合格した、というおめでたい知らせを受けました。もう同じ臨床家です。お互い頑張りましょう。
<祝>当ブログの読者KENJIさんが青年海外協力隊(25-2 タイ)に合格した、というまたまた嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>募集説明会で体験談をお話させて頂いた方2名も青年海外協力隊(モザンビーク、ベトナム)に合格したと再会時に報告がありました。おめでとうございます。
<祝>2013年JOCVリハネットセミナーで私の活動報告を聞いてくださったA.Kさんも青年海外協力隊に合格されました。おめでとうございます。

青年海外協力隊 平成28年度秋募集(2016/10/1より募集開始) 体験談&説明会 開催予定日公開!
大阪以外の開催地・日程はこちら→http://www.jica.go.jp/volunteer/seminar/index.html
 ・梅田
 10月1日(土)14:30~ 阪急グランドビル26階 
 10月6日(木)19:00~ アプローズタワー10階 
 10月13日(木)19:00~ BREEZE BREEZE8階 
 10月22日(土)14:30~ 大阪富国生命ビル12階
 10月28日(金)19:00~ 阪急グランドビル26階
 ・天王寺
 10月8日(土)14:30~ あべのベルタ3階
 10月19日(水)19:00~ あべのベルタ3階
 ・堺
 10月16日(日)14:30~ 堺市立国際交流プラザ6階
  *当ブログの作者(ドミニカ共和国、理学療法士)は今回の春募集では体験談を話に行くことができませんが、興味をお持ちの方はぜひお越しください。私に質問がある場合は、関連する記事のコメント欄に質問いただければ、回答いたします。

2011年2月22日火曜日

ミャンマー

 先日、ミャンマーの理学療法士(PT)さん5人と交流する機会がありました。彼らは、「ミャンマー理学療法士協会」の設立を目指している選ばれし者です。1か月ほど日本に滞在し、講義や見学を通して、PTに必要な概念や評価法、また診療録の書き方などを習ってきたそうです。その総まとめの日にお邪魔しました。今日は、その時に得たミャンマーの現地の人の声による貴重な情報を紹介したいと思います。
 <ミャンマーの理学療法士の育成について>
 4年生の大学で勉強することが必須だそうです。理学療法を勉強するには国立の大学しかないそうで、年に1度ある全国統一試験での成績によって理学療法学部に入れるかどうかが決まります。成績順で「あなたはこの学部に入れます」と割り振られるからです。一番は医学部、その次は薬学部、そしてその次あたりに理学療法学部があるそうです。看護学部は理学療法学部よりやや下とのこと。海外でPTの免許を取得した人は聞いたことがないそうです。もし、そのような人がいれば、おそらくミャンマーには戻って来ないだろう、と言っていました。
 <ミャンマーの理学療法事情>
 日本と同じで、ミャンマーでもPTが対象とする症状で一番多いものは「痛み」だそうです。それに対して行われていることは物理療法で、徒手治療はやっていないとのことです。物理療法を行っていき、痛みが軽減してきたころ、関節可動域運動などの運動療法が行われると言っていました。徒手治療はほとんど行っていないのは習っていないからなのか、関節運動学的アプローチarthrokinematic aproach(AKA)という言葉は初耳だったそうです。日本で開発されたAKAの一つにHakata methodという物があることを紹介しておきました。AKAについてはまだ知らないミャンマーのPTですが、Physical Medicine and Rehabilitationという言葉を知っていました。日本では後者(Rehabilitation)のみが輸入されてきましたので、Physical Medicineも知っているミャンマーのPTの方が未来は明るいような気がしました。
 <ミャンマーの家族事情>
 ミャンマーでは大家族が多いそうです。一人暮らしは非常に稀で、退院に際しては介助者が必ずいます。誰かが病気になれば、遠方からでも親戚や知人が大勢お見舞いにやってくるそうです。笑い話で、「病人が出れば、その家はパーティー騒ぎだ」と言っていました。病院でパーティー騒ぎされないように、「お見舞いは1度に1人」という立て看板が置かれているそうです。お見舞いに行かないと、その後の関係が悪くなるそうで、どうしても行けない場合は誰かにお見舞いの品を託して後日訪れるのだそうです。だから、出勤前に「これを○○氏のところへ届けてくれないか」と頼まれることは日常茶飯事だと言っていました。
 <ミャンマーの障害児事情>
 子供が障害を受けると親が付きっ切りで介護します。学校へ行ける場合は、親も同行して学校生活を援助するのだそうです。しかし、車いす生活になった子供の場合、道路が非常に悪いので通学が困難になります。さらに、車いすになってまで学校に行かなくてもいい、という考えが親にも子供にも現れることから、通学しなくなるそうです。松葉杖で歩ける子供なら通学している例もある、とのことでした。
 たった1日だけの交流でしたが、快く歓迎してくれたミャンマーの理学療法士の方々に感謝でした。また、非常に熱心に取り組まれている姿を見て、日本も負けていられないぞ、と思いました。ミャンマーには青年海外協力隊が派遣されていないそうです。いつか、ミャンマーも訪れたいと思います。

2011年2月16日水曜日

幸福感

 去年の4月に受講したイデアス実践講座の講義資料の一つを、先日引っ張り出して読んでいました。資料のタイトルは『幸福研究と開発経済学』です。
 幸福の要素とは、物的な豊かさ・自尊と尊厳・生活保障・平和・身体の安全など、と『Voices of the Poor』という本に書かれているそうです。人間生活を評価する指標に、「お金持ちか、お金がないか」と「幸福感があるか、幸福感がないか」の2つの視点を持って考えた場合、従来はお金持ちであればあるほど、幸福感は上がる、と思われていました。しかし、実際にはそうではない、という考え方が経済学に取り入れられるように近年はなってきたそうです。ブータンは「GNPではなくGNHで世界一を目指す」と言った、という話も聞きました。GNHとは、gross national happiness:国民総幸福の略です。
 例として適当かどうかを論点としないならば、私の例を一つ挙げてみたいと思います。私が卒業した専門学校は歴史が古いため、建物の老朽化や、設備・備品の故障・破損・紛失など、決して恵まれた環境ではありませんでした。ベッドも何度壊れたことか。最先端の設備を備えた新しい大学などと比べるとハード面では到底敵いません。しかし、私は不幸だったか、と言うとそうではありません。むしろ幸せでした。それは、自分の希望を叶えてくれる教育を受けることができたからです。アマルティア・センの言う「貧困」と全く逆です。私の潜在能力を生かして、さらに伸ばしてくれる教育が受けれたことが、幸福感を上げる大きな因子になりました。
 お金やモノがあれば良い、というわけではないのです。
 なぜ、こんな事を書いたかと言うと、先日、『理学療法士の国際協力』というタイトルで、JOCVの大阪府OB・OG会で30分、お話させて頂いたことがきっかけです。プレゼンテーション後、懇親会で「理学療法士の仕事である、障害を持った人が社会に戻る手助けをする、というのはその人の幸福感を上げることができる素晴らしい仕事だ」と言ってもらいました。障害者が稼いだお金が例え微々たるものでも、社会の輪に入ること自体に意義がある、と教えていただきました。私は、障害者が社会参加することが、その国や地域に良い経済影響を与えることができれば良いなぁ、と考えていました。しかし、国や地域に影響を与える以前に、一人ひとりの生活に影響を与える、ということを忘れていました。その影響とは、経済的な影響だけでなく、幸福感へも影響を与えるんだ、ということを気づかせてもらいました。
 人々の幸福感を上げることが、私の幸福感にも繋がると思います。もっと広い視野を持たないといけません。

2011年2月11日金曜日

ヒロシマ

 広島は水の都として発展・近代化された都市で、学都でもあり軍都でもありました。今でも珍しいT字型の橋、相生橋が作られ、戦前から電車が走っていました。また、陸軍の第5師団が置かれ、日清戦争や日露戦争など、戦争のたびに軍用地は拡大されていきました。日清戦争の際には、明治天皇と大本営headquarterが広島にやってきて、当時の広島は日本の臨時首都のような役割を担っていたそうです。
明治時代から軍事教練が始まり、幼稚園から戦うことを教えられていました。幼稚園児にも教えているくらいですので、当時は女性にも軍事教育がなされていました。昭和に入ると中学校以上の学校に現役の将校が配属されて学生に訓練をさせていたそうです。昭和14年にはこの軍事教練は男子の義務となりました。宇品港と呼ばれる港から多くの若者が出兵していきます。
 極秘の原爆製造計画「マンハッタン計画Manhattan Project」が1942年8月に始動し、1944年9月に日本に投下することが決まりました。いくつかターゲットとなった都市があり、その中にもちろん広島も含まれていました。ターゲット都市に対して、1945年5月、空襲禁止の命が出ました。理由は、原子爆弾の威力を正確に知るため、および、投下目標点を目視できるよう空気を汚さないため、だったそうです。そして、8月6日午前8時15分、無警告で落とされた原子爆弾が地上600mの上空で爆発しました。投下目標点は特徴的な形をした相生橋でした。
 直後から赤十字国際委員会のジュノー医師などが救護活動を開始しました。彼は当時不足していた医薬品などをGHQから大量に取り寄せ、救護活動に貢献した医師の一人です。1947年にはアメリカがABCC:Atomic Bomb Casualty Commissionを立ち上げ、アメリカ人医師が診察を行い始めました。しかし、ABCCの医師は「診察はするが治療はしない」と強い批判を受けました。ABCCからの医師の興味は、原爆が人体に与える影響であり、治療するために来日していたのではなかったのです。
 原爆の威力を知るために空襲をしない、や、人体への影響を知るための診察、など人権を無視した酷い行動です。最近、この原爆によって傷ついた人を、イギリスのテレビ番組が笑い話に用いた、というニュースを目にしました。日本に原爆を落とすことを決めたのはアメリカとイギリスです。そのイギリスが今もこんな意識では、核は絶対になくならないでしょう・・・。

2011年2月3日木曜日

ナガサキ

 1月31日~2月2日まで、2泊3日でナガサキ・ヒロシマを巡ってきました。目的は、原子爆弾が対人に使われた世界唯一の国である日本について詳しく理解することです。原爆が落とされた順番とは逆ですが、長崎から行きましたので、長崎で学んだことから先に書きたいと思います。
 飛行機で長崎に行き、昼食に佐世保バーガーを食べた後、長崎原爆資料館に13時頃到着しました。予定より遅く到着しました。理由は、めったにないという積雪によるバスの運休です。地元の人いわく、全く雪を見ない年もある、というのに、私が行った日に限って雪が積もっていました。
 さっそく入館料を払い、ノートを取り出し、最初のパネルからじっくり見て回りました。ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、最初から最後まで丁寧に説明してくれました。これには感謝感激でした。閉館までみっちり勉強できました。
 写真でしか見たことがなかった原子爆弾「ファットマン」の実寸大の模型を見て、最初は「意外に大きいなぁ」と思いました。(原爆の威力、恐怖についてあまりにも理解が乏しかった証拠だと思います。)しかし、被害について詳しく知っていくと、「これっぽっちの爆弾で・・・」と感じてきました。ひとつの爆弾が、長崎の人口の半数をも死傷させたと思うと・・・ 一瞬で全てのものを吹き飛ばしたかと思うと・・・ 胸がつまる思いでした。
 その原爆に、皮肉にも日本人が開発した「八木アンテナ」が使われていた、と知るとなんだが切なくもなりました。地上から500mの上空で爆発させるための高度センサーだったそうです。写真は、爆心地から上空を見上げたものです。この上空で八木アンテナが反応して爆破のスイッチが作動したのです。
 近くに長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)があり、ここも被害に遭いました。しかし動ける医師、看護婦は直後から懸命に救護活動にあたったそうです。しかし、次から次へと運び込まれる患者に対して、限りある物資。消毒液やガーゼ、包帯はすぐに底をつき、処置も受けずに帰っていく人々も多くいたそうです。
 救護活動にあたっていた放射線科(当時は物理的診療科と言われていた)の医師、長井隆は原爆投下前から、仕事で大量の放射線を浴びており、慢性骨髄性白血病を発症していました。それでも救護隊として第一線で活躍し、その時のことを多くの著書(17冊)に書き記しています。私は彼に関する資料館へ行き、彼に関する本も購入しました。(この旅でたくさんの本を買いました。)長崎県の第1号名誉市民でもある長井医師のもとに、ヘレンケラーも訪問され手紙を残していったそうです。
 原爆資料館、長井隆資料館、平和公園を見て周り、悲惨な戦争の様子を目の当たりにしました。暗い気持ちになりました。そこで、通常の観光もしてきました。稲佐山の頂上からの夜景や、坂本竜馬の亀山社中跡、長崎港などをオリンパスペン片手に回りました。近々、フォトパス(左コラム参照)にアップしようと思います。