広島は水の都として発展・近代化された都市で、学都でもあり軍都でもありました。今でも珍しいT字型の橋、相生橋が作られ、戦前から電車が走っていました。また、陸軍の第5師団が置かれ、日清戦争や日露戦争など、戦争のたびに軍用地は拡大されていきました。日清戦争の際には、明治天皇と大本営headquarterが広島にやってきて、当時の広島は日本の臨時首都のような役割を担っていたそうです。
明治時代から軍事教練が始まり、幼稚園から戦うことを教えられていました。幼稚園児にも教えているくらいですので、当時は女性にも軍事教育がなされていました。昭和に入ると中学校以上の学校に現役の将校が配属されて学生に訓練をさせていたそうです。昭和14年にはこの軍事教練は男子の義務となりました。宇品港と呼ばれる港から多くの若者が出兵していきます。 極秘の原爆製造計画「マンハッタン計画Manhattan Project」が1942年8月に始動し、1944年9月に日本に投下することが決まりました。いくつかターゲットとなった都市があり、その中にもちろん広島も含まれていました。ターゲット都市に対して、1945年5月、空襲禁止の命が出ました。理由は、原子爆弾の威力を正確に知るため、および、投下目標点を目視できるよう空気を汚さないため、だったそうです。そして、8月6日午前8時15分、無警告で落とされた原子爆弾が地上600mの上空で爆発しました。投下目標点は特徴的な形をした相生橋でした。
直後から赤十字国際委員会のジュノー医師などが救護活動を開始しました。彼は当時不足していた医薬品などをGHQから大量に取り寄せ、救護活動に貢献した医師の一人です。1947年にはアメリカがABCC:Atomic Bomb Casualty Commissionを立ち上げ、アメリカ人医師が診察を行い始めました。しかし、ABCCの医師は「診察はするが治療はしない」と強い批判を受けました。ABCCからの医師の興味は、原爆が人体に与える影響であり、治療するために来日していたのではなかったのです。
原爆の威力を知るために空襲をしない、や、人体への影響を知るための診察、など人権を無視した酷い行動です。最近、この原爆によって傷ついた人を、イギリスのテレビ番組が笑い話に用いた、というニュースを目にしました。日本に原爆を落とすことを決めたのはアメリカとイギリスです。そのイギリスが今もこんな意識では、核は絶対になくならないでしょう・・・。

