理学療法士→青年海外協力隊→日本で臨床をしながら緊急援助について学ぶ(現在)→大学院?→国際協力をライフワークに
2011年3月11日より発生しました東日本大震災において、犠牲になられた方々に心よりご冥福をお祈り申し上げます。 また被災された方々に対しましては、お見舞い申し上げるとともに、一日でも早くの復興を応援・支援させていただきます。
2016年4月16日より発生しております熊本地震において、亡くなられた方に心からご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにお見舞い申し上げます。

<祝>当ブログの読者Y.Kさんが青年海外協力隊(24-1 モンゴル)に合格した、という非常に嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>当ブログの読者で青年海外協力隊を目指すMIDORIさんが理学療法士国家試験に合格した、というおめでたい知らせを受けました。もう同じ臨床家です。お互い頑張りましょう。
<祝>当ブログの読者KENJIさんが青年海外協力隊(25-2 タイ)に合格した、というまたまた嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>募集説明会で体験談をお話させて頂いた方2名も青年海外協力隊(モザンビーク、ベトナム)に合格したと再会時に報告がありました。おめでとうございます。
<祝>2013年JOCVリハネットセミナーで私の活動報告を聞いてくださったA.Kさんも青年海外協力隊に合格されました。おめでとうございます。
<祝>国際緊急援助隊に当ブログを見て興味を持って頂いたOTさん、青年海外協力隊説明会でお会いしていたOTさん、フェイスブックで私を見つけて質問して頂いたPTさんが仲間入りしました。みなさん青年海外協力隊経験者でした。

青年海外協力隊  体験談&説明会
  *当ブログの作者(ドミニカ共和国、理学療法士)は今回の春募集では体験談を話に行くことができませんが、興味をお持ちの方はぜひお越しください。私に質問がある場合は、関連する記事のコメント欄に質問いただければ、回答いたします。

国際緊急援助隊(JDR)医療チームへの参加に関心のある方へ
  *JDR医療チームはWHO EMT InitiativeのType2認証を受けており、リハビリテーションの提供が求められるチームとなっています。理学療法士・作業療法士で関心のある方、仲間が増えるとうれしく思います。

2018年8月21日火曜日

【WCPT News】2018/8/15 追悼 Brian Davey氏

Brian Davey氏の訃報が届きました。Davey氏は1982年から88年の間、WCPT西太平洋地区の執行委員を務め、その後1988年から91年はWCPTの会長を歴任しました。

Davey氏はニュージーランドのDunedinで理学療法士を目指し勉学に励み、1961年に卒業しました。1975年にはオーストラリア理学療法協会(APA)に入会し、1979~80年はニューサウスウェールズ州支部の支部長を務めました。1980~81年にはAPA会長に就任しています。1992年、理学療法発展に寄与したとしてオーストラリアで勲章を受けています。

1995年から99年にWCPT会長を務めたDavid Teager氏は「Brianは行動力があり、力強いリーダーシップを発揮する人でした。彼の歯に衣を着せないスタイルも、彼のユーモアのセンスで受け入れてもらいやすく、それによりWCPTのガバナンスや活動に影響を与えてきました。

1991年のWCPTロンドン大会の際に行われたレセプションにフィリップ王配を個人的にお連れし、フィリップ王配が世界各国から集まった参加者に彼を紹介したのを覚えています。

BrianとJoyceは心温かなホストでした。彼は自分の家族がいかに自分をサポートしてくれていたか、よく語っていました。私たちは彼らの死を受けて、昔のことを懐かしく思い出しました。」と述べています。

WCPTのMarilyn Moffat元会長(2007~15年)は「Brianは長年、国内外で理学療法に関して大きな影響力を持っていました。彼の死が惜しまれます。彼はラグビー選手をしていた時に一人の開業医との出会い、そこから彼の理学療法人生は始まりました。Dunedinで養成課程に入り、その先は全てが歴史となっていきました。

初めての職場となった病院で研鑽していた時、BrianはRobyn McKenzie氏と出会い、一緒に働こうと声をかけました。Brianもそうしようと動いていた所、Robynは彼に開業を勧め、実際に開業をしました。McKenzieとMulliganとの交流は続き、夜の勉強会にともに参加していると、CyriaxやParisとも知り合うことになりました。Parisは偶然にも、Brianが一年生のときの三年生でした。また他の当時の徒手療法をリードしていく仲間とも出会いました。彼は少しずつシドニーでの臨床を減らしていき、オーストラリアでの理学療法政策へ関わることになりました。その経験からオーストラリア理学療法協会の会長への昇進しました。当時、初めての政治との繋がりを持つ理学療法士となりました。

そこから、1988年に彼はWCPTの会長となり、資源が乏しい国や政策が不十分な国への支援が重要であることを認識し、その20年も後に、私が最も力を注いだ仕事となりました。また、近隣のより大きな組織が、小さな組織を支援する方法についてもBrianは当時から構想を持っていました。会長時代にはアフリカでの影響力も大きかったのがBrianです。」と語りました。

理学療法業界はそんな素晴らしい彼を失ったことを悲しく思います。

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