2011年12月31日土曜日

料理が好きになった1年を振り返る

五十嵐亮太投手と
 もう2011年が終わり、2012年になろうとしています。今年はこれまでで一番大きな変化があった1年だったと感じます。
 1月、日本の病院でまだ働いていた頃。本来ならあまり忙しくない時期なのに、スタッフの退職が続き、激務が続いた日々でした。この月に、初めての実習指導者会議に出席し、教育について考えるきっかけをもらいました。
 2月、日本について知ろうと、思い切って有給休暇を長めに頂き、広島長崎を訪問し、じっくり勉強しました。25年以上日本に住んでいるにも関わらず知らないことだらけだったことに反省し、日本という国を見直すきっかけになった月でした。また、ミャンマーの理学療法士の方との交流があり、途上国でも一生懸命に理学療法を発展させようと頑張っている人の姿を見て勇気が湧いた月でもありました。
 3月、日本人には忘れられないショッキングな出来事が起こりました。東日本大震災により、多くの方がお亡くなりになり、そして今も厳しい生活環境や乏しい資源に悩まされ続けている方々がいらっしゃいます。自分にできることは何か悩む日々が続きました。
 4月、予定通り、退職し、派遣前訓練が始まりました。さまざまな手続きに翻弄され、家族の協力を得て手続きを終えました。母親の協力のありがたさを噛みしめました。
 5月、訓練所では中間テストがあり、無事合格。そして、理学療法士のI先生(JOCV経験者)震災ボランティアについて長野まで出張講義に来ていただきました。専門性に捕らわれない柔軟な活動、笑いの力、被災地の現状についてお話いただきました。(感謝)
 6月、派遣前訓練が終わり、いよいよドミニカ共和国に到着しました。ニューヨークからドミニカ共和国までの飛行機内に毛布がなく、さらに冷房が強くて、そして疲労もあってか、さっそく風邪を引いてしまいました。けど、それ以来は体調を崩すことなく過ごしています。
 7月、ドミニカ共和国での語学訓練が始まりました。ドミニカ共和国なまりで早口なスペイン語に苦戦しました。
 8月、任地のサンティアゴに移動。その翌日には配属先の病院へ行きました。いろいろ問題山積みな職場ですが、陽気で働き者のスタッフに歓迎され、働きやすい職場であると感じています。
 9月、内閣府から青年団が派遣されてきて、若い人たちとの交流がありました。みんな将来の夢や目標があり、話をしているとこちらまでワクワクするような人たちでした。また、この月は派遣されて3か月ということで、第1号報告書を作りました。
 10月、かなりドミニカ共和国にもなれてきて、他の隊員と一緒に国内旅行する機会が増えました。ハイチマーケットでスポーツシューズを買い、テニスやソフトボールなど、運動する機会も増えました。
大隣憲司投手と
 11月、コスタリカへ、研修に行ってきました。初めての任国外、これも手続きがいろいろあり大変でしたが有意義な時間を過ごせました。これをきっかけに、職場全体で協力して働こうというモチベーションが高まりました。
 12月、ドミニカ野球が盛り上がり、何度も球場に足を運びました。ニューヨークメッツの五十嵐亮太投手や、ソフトバンクホークスの大隣憲司投手がこちらで投げており、お話をしたりサインをもらったりと野球が好きになりました。

2011年11月24日木曜日

技術情報支援制度

 JICAが開発途上国に派遣して技術移転を行っている人を対象に、「技術情報支援制度」というものがあります。これは、JICA研究所(東京都新宿区)に入っているJICA図書館が行っている制度です。JICA図書館にはODA資料や各国の情報を扱った図書などが所蔵されており、一般の方でも閲覧可能です。平日10時~18時までです。各国言語の辞書や語学学習教材などもあるようなので、派遣前などの語学学習にも使えるかもしれません。
 さて、そのJICA図書館が行っている「技術情報支援制度(←詳細はクリック)」の対象者ですが、私も含まれます。そして、その制度を利用して、先日、2つのDVD教材を申請しました。医歯薬出版株式会社から出ている『DVD版 関節運動学的アプローチ(AKA)-博田法 第2版』と『DVD版 関節神経学的治療法(ANT)』です。申請してからちょうど1か月でJICA在外事務所に到着しました。
 現地で手に入るものは申請できないので、スペイン語の医学書、などは欲しいけど申請できません。私の配属先にはこれまで派遣されてきたボランティアが残していった様々な本がありますが、その多くが「○○のリハビリテーション」や「リハビリテーションマニュアル」など、簡潔にまとまってはいるけど情報不足、という本です。そして、内科学、外科学など臨床医学の本が全くありませんので、病気のことを調べようと思うと、インターネットに頼るしかありません。(インターネットでは信用できる情報であるかを吟味しないと、誤った情報で患者を診ることになります。私は「メルクマニュアル」を基本的に活用しています。メルクマニュアルを提供しているMSDという会社のメキシコ版からはスペイン語で書かれたメルクマニュアルが参照できます。しかしユーザー登録が必要です。)なので、本当に欲しいものが必ずしも手に入る、とは限らないのがこの制度の欠点かもしれませんが、他にも私たちを支援する制度はいくつかあるので、使える制度をできるだけ有効活用すれば、この問題は解消されます。
 この制度で申請できるもの=現地で手に入らないもの、それは「日本オリジナル」のものになってくると思います。様々な分野で「日本発祥の技術・知識」があるはずです。それは物理医学においてもそうです。これが日本の技術だ、というものを見せつけるための、非常に有用な制度がこの「技術情報支援制度」だと思います。他の分野でも日本オリジナルをこの制度を使ってアピールしていって欲しいと思います。

2011年10月31日月曜日

在外研修制度(参加型)

 明日からコスタリカへ「在外研修制度(参加型)」という制度を利用して研修に行ってきます。この制度の概要は以下の通りです。
(以下抜粋)
・概要
 ボランティア自身の技術をより現地のニーズに適したものとすること、受入国のみならず他の国や地域に共通する課題に取り組むことを目的として、配属先の同僚・関係者等(以下「パートナー」)や他国派遣ボランティアとともにセミナー・研修を開催、あるいはそれらに参加することで、当該課題への取り組みについて研究・議論を深め、ボランティアの活動をより効果的なものとするための制度です。在外研修には、ボランティア及びパートナーが自らの企画・立案・実施する開催型と、他国のボランティア及びパートナーが開催するセミナー・研修や、既存のセミナー・研修等に参加する参加型の二つのタイプがあります。
・条件
 1.ボランティアの活動上支障がないこと
 2.研修先国について、安全管理上又は外交上支障がないこと
 3.ボランティアがパートナーとともに参加すること
 4.開催型の場合には、開催国を含めて3ヶ国以上からのボランティアおよびパートナーの参加があること
 5.受入国共通の課題や問題点について参加者がともに取り組む機会があり、成果が期待できること
 6.配属先が研修に参加を要請または承認していること(文書取り付けが必要)
(以上抜粋)
 3日間の研修で、内容は「急性期・慢性期の脊髄損傷、脳卒中」「脳性麻痺」「末梢性顔面神経麻痺」「筋疾患」「腰痛」「RSD」「関節炎」などの講義が各1時間程度ずつあります。1時間で総論から各論まではもちろん不可能ですので、総論か各論かどちらかを省略しないと薄っぺらい内容になってしまいそうで心配ですが、話すのは医師がほとんどなので、楽しみにしています。(理学療法士から病気について講義を受けるなんて正直ゴメンです。わざわざ外国まで行って聞く話にはなり得ません。)私だけでなく、カウンターパートにとっても医師の話が聞けるのは非常に貴重です。
 ちなみにこの研修会には、同じ職場に派遣されている作業療法士のJICAボランティアと、義肢装具士のJICAボランティアも、それぞれのカウンターパートとともに参加します。また、日系社会で活動されている看護師のJICAボランティアの方も参加します。関連多職種が同じ研修会に参加することで、知識の統一ができ、職種の壁を越えた協力体制ができあがることを期待しています。今、カウンターパートが興味を持っている「チーム医療」というものの礎ができれば、私はその礎を利用して活動を発展させていきたいです。また、現在あまり関与していない急性期患者の対応についても講義があるので、その難しさを知ってもらえたらと思っています。
 コスタリカでは研修が目的なので、観光する時間はほとんどありません。コスタリカと言えば「キャノピー」(上の写真)や、尾が長く美しい鳥「ケツァール」(右の写真)、活火山、海や川のレジャーなどなど、観光業が盛んな国なので見どころはたくさんあります。休暇を取ってコスタリカを訪れるJICAボランティアもたくさんいます。(ドミニカ共和国にもいろいろな国のボランティアが遊びにきてくれますが。)もしかしたら、また観光目的で訪れるかも? という事で、空いた時間はできるだけコスタリカという国を知ることに努めたいと思います。

2011年10月17日月曜日

ボランティア活動報告書(1号)

 JICAボランティアは2年間の派遣中に5回の報告書を書くことが命ぜられています。派遣3か月の時点での活動報告書が承認されましたので、公開したいと思います。この報告書はJICAにより一般に公開されますので、過去の様々な職種の活動を報告書を通して知る事ができます。主に東京・広尾にあるJICA地球ひろばに所蔵されています。

________以下活動報告書________

<要約>

 任国派遣3か月、任地派遣2か月時点での報告書。首都同様、比較的栄えた都市にて生活しており、日常生活での不便はほとんど感じない。配属先のNGOが経営する病院には、多くの患者が来院し、現地スタッフは日々忙しく働いている。長年のボランティア派遣実績があり、ボランティアにとっては働きやすい環境が最初から整っていると感じる。現地スタッフの技術レベルは非常に低く、患者に害を与えていることの方が多いが、みな一所懸命に働いているように思われる。カウンターパートは現地スタッフの技術および知識の向上のため、ボランティアに技術指導や講義等を望んでおり、現在までに1度、全療法士を対象にした勉強会を実施した。

<1、活動地域及び配属先の概要>

1)活動地域概要、抱える問題点
 活動地域は首都からバスで2時間ほどのサンティアゴ。大型スーパーがホームステイ先から徒歩圏内に4つあり、日本のホームセンターのような店や、家電量販店のような店も他に存在し、特殊な日本の食材以外は比較的手に入る。車の交通量が非常に多く、歩行者よりも車優先の交通事情故、道路の横断には注意が必要である。ホームステイ先が中心街であることから、車のクラクションや音楽などの騒音が大きいが、徒歩圏内で全ての用事が済ませられることに非常に利便性を感じている。
 道路は舗装されているが、穴が空いていたり、マンホールが盗まれていたり、鉄の棒が地面から出ていたりしており、車だけでなく足元も注意して歩かないと地面には危険が多く潜んでいる。そのため障害者には決して移動しやすい環境ではなく、人の助けが多く必要である。

2)配属先の事業内容、組織体制
 配属先名称はPatronato Cibao de Rehabilitación, Inc.で、1967年12月に設立された現地NGO団体。あらゆる年齢、疾患の患者に「物理医学とリハビリテーション(PM&R:physical medicine and rehabilitation)」を提供することを目的としており、理学療法・作業療法・言語療法・義肢装具作成室・医療相談室などがある。

3)配属先の援助受け入れ実績
 理学療法士 1998年から6代目
 作業療法士 1995年から4代目
 義肢装具士 2008年から2代目

<2、ボランティアが所属する部局の概要>

1)ボランティアが所属する部局の事業内容及び課題
 理学療法は成人中枢疾患部門、小児疾患部門、整形疾患(手を除く)部門、手の外科疾患部門に分かれており、整形疾患部門は男性用と女性用が分かれている。現地スタッフはそれぞれ特定の部門に従事しているが、ボランティアは全部門を広く見渡す立場にいる。

2)同僚の人数および技術レベル
 理学療法に従事しているスタッフは15人。技術レベルはみな同じではないにしろ、概して非常に低いレベルである。適応・禁忌の知識がない状態で、医師の処方通りに流れ作業のように理学療法を行っている事から、禁忌が平然と行われている状況である。また現病歴や病態を把握しようとしていないし、カルテがないことから正確に把握することが困難である。技術向上の意欲があるスタッフが少ないながらも存在するが、多くは自身のやり方に(現地人同士であっても)口出しされたくない様子である。

<3、配属先のニーズ>

1)ボランティアに対して期待している内容
 急性期患者への理学療法提供、運動療法技術の向上、歩行評価法の獲得、チーム医療がカウンターパートより要求されている。そのためにセミナーや実技練習会の実施を依頼され、9月16日に1度ボランティアより勉強会(テーマ:拘縮)を全理学療法士に対して行った。

2)当初要請時のニーズからも変更点
 カウンターパートとしてはニーズの変更は現時点ではないが、ボランティアとしては急性期患者への理学療法提供は、危険とトラブルを秘めていると感じ、積極的に進めたいとは思っていない。

<4、活動計画準備状況>

 現在、治療に難渋している患者がいればボランティアが呼び出されるシステムになっている。しかし、呼び出してくるスタッフは限定されており、関わりのないスタッフも多くいる。現地スタッフの技術と知識の向上のためには、非常に多くの指導を必要とし、現実的ではないので、患者に害を与える行為は何かを教え、その行為を止めさせることができれば、今より治療成績は上がると考える。そのために勉強会を定期的に行ったり、患者を治療しながら教えることを続けていきたい。
 また、11月にコスタリカで行われるセミナーに、当院に派遣されている理学療法士と作業療法士と義肢装具士のボランティア3名と、それぞれのカウンターパート3名が、ともに参加を計画し、共通した知識・技術を得ることで、今後のチーム医療が発展していくことを願う。

<5、受け入れ国の印象>

 交通事情(道路の悪さ、交通マナーの悪さ、交通量の多さ、信号機の故障など)や治安の悪さ(一般人の拳銃所持、殺人事件、強盗など)、電気・水事情(停電、断水)などは、訓練所で事前に聞かされ、日本にいる間に驚かされたので、現地に到着してから改めて驚くことはなかった。治安に関して、悪いニュースばかり聞かされていたが、温厚で明るい性格のドミニカ人と楽しい時間を過ごすことができている。

________以上________

 これは9月末に書いた報告書ですが、現在は、他の関連施設との連携をいかに取っていくか、コスタリカの研修をいかに今後に活かすかを考えています。また、首都に理学療法士と義肢装具士、私のいるサンティアゴに作業療法士のボランティアが増える予定なので、今後、理学療法士・作業療法士・義肢装具士・養護のボランティア間の連携も目指したいと考えています。
 このボランティア間の連携は、算数指導能力向上プロジェクトの隊員の話などを参考にしようと思っています。彼らは週1回、午前中に集まって会議を開いています。いい点はどんどん参考にさせてもらい計画を練っていこうと思います。

2011年10月12日水曜日

ソフトボール大会

 先日、ハラバコアで日系人ソフトボール大会がありました。首都を朝6時過ぎに出発して、3時間ほどで到着する町です。派遣中のボランティアがJICAチームに入ってプレイしてきました。日系人チームが4つ、JICAチームが1つ、大使館チームが1つで、私たちJICAチームは初戦、大敗してしまいましたが、2戦目は何とか勝つことができました。
 日系人チームはみな、かなり練習しているようで、ホームランやランニングホームランを次から次へと打ってきますし、守備もほとんどエラーがありません。対するJICAチームは練習も全くしていない人がいるウケ狙いのチームです。笑
 でも私は、このソフトボール大会があると聞いて、グローブと運動靴を購入して、(少しだけ)試合に備えて練習してきました。グローブは近くの大型スーパーで、運動靴はハイチマーケット(ハイチ人がやっているフリーマーケット)で手に入れました。
 しかし、肝心の試合当日に、どちらも持って行くのを忘れるというミスを犯してしましました・・・。
 勝てたのはカープアカデミーの方のおかげだと思います。強力な助っ人で2人も入っていただきました。
 結局、顎でボールを取る、走塁時に滑ってこける、バッドを逆さに持つ、など適度に笑いを取って終わりました。
 このソフトボール大会は、日系人協会の方がグランド整備、テント設営など様々な準備をして開催された大会で、非常に楽しい一日を過ごせたことに感謝です。そして、大使館チームの大使から飲み物の差し入れがあり熱中症や怪我なく終えれたことにも感謝です。

2011年10月6日木曜日

ドミニカでの休日

 ドミニカ共和国に来て、もう3か月が過ぎました。平日はしっかり活動しつつ、休日はドミニカ共和国を知るためにいろいろな所に行っています。まだまだ、知らない所がたくさんありますが、これまで行ったところを簡単に紹介します。

1、ボカチカ
 ここは写真のように観光地ともなっているビーチです。首都にある空港から近く、高級ホテルや高級レストランなども近くに構えています。

2、コロンブスの像
 ここは世界遺産にも登録されているソナコロニアル(植民地帯)にあります。後ろに見えるのは大聖堂で、この辺りも観光地化しており、お土産屋さんの中には米ドルでも買い物できる所があります。

3、ハードロックカフェ
 コロンブスの像からすぐの所にあるハードロックカフェでは、ギターの形をしたプラスチックのグラスにジュースを入れてくれます。おかわり自由だったので、店を出るときにジュースを充填してもらいました。

4、コロンブスの灯台
 中には展示スペースとお土産屋さんがあります。行ったときは停電していました。笑

5、オサマ川の要塞
 要塞というだけあって重厚な造りです。弾薬庫や大砲なども展示されていました。

6、バラオナ
 高級リゾート地、カサボニータの入り口にあるラリマールショップは、原石を自分で選んで自分で磨くことができます。2つ作って帰りました。

7、バラオナ2
 バラオナにあるビーチです。ここはボカチカと違って地元の人だけ、という感じの落ち着いたビーチで、岩場にはいろいろな魚がいました。

8、ボーリング
 ドミニカ共和国にもボーリングがあるんです。ビリヤード場もあります。バッティングセンターもあるらしいのですが、まだ行けていません。

2011年9月27日火曜日

骨髄バンク

 昨日、骨髄バンクに関する新聞記事(ウェブ版)を目にしました。骨髄バンクとは平成3年に設立された、骨髄移植の必要な患者を救済するための財団で、今年の12月で設立20年になります。骨髄バンクで骨髄提供の意思を示し登録を行うと、骨髄移植が必要な患者とマッチングが行われます。健康な人がこの登録を行うことをドナー登録と言います。ドナーとは骨髄を提供する人の事です。ちなみに骨髄をもらう患者側の事をレシピエントと言います。
 ドナー登録の数が10万人に達すると、9割の患者がドナーを見つけることができる、と言われています。現在、ドナー登録数は37万2千人(平成22年10月現在)だそうです。そして、実際、骨髄移植を待つ患者の9割以上にドナーが一人以上見つかるようになりました。これは凄いことだと思います。日本に住むみなさんの善意が多くの患者を救う結果をもたらしているからです。
 しかし、9割の患者の全てが、骨髄移植を実施するに至らないことも事実です。ドナーが見つかっても6割の患者しか骨髄移植は行われていません。その原因をドナー側とレシピエント側と分けて書いてみます。

<ドナー側>
 1、ドナーの健康状態が基準に満たない事から提供に至らないケースがまず考えられます。骨髄を提供するには、骨盤の骨に大きな注射器のようなものを刺して骨髄液を抽出するのですが、これには全身麻酔が必要です。1時間程度の手術になります。ですので、ドナーになるには手術に耐えられる体が必要なのです。
 2、また手術には危険が付き物です。全身麻酔を行うリスクを理解した上で、ドナーになる準備を進めるのですが、家族に反対されてドナーになれなくなることもあります。またリスクの説明を受けて本人の提供の意思がなくなることもあります。
 3、骨髄を採取するためには手術のため3泊4日の入院が必要であることに加えて、術前・術後の健康診断などがあるため、働いている人にとっては、職場の協力が不可欠なのですが、どうしても代わりがいない、という人もいます。

<レシピエント側>
 ドナー候補者が現れてから、実際に骨髄移植が行われるまで、ドナー側もレシピエント側も様々な準備が必要で、半年以上かかってしまいます。レシピエントがそれを待てずに病態が悪化し、移植を受けられなくなる場合があります。

 以上のようなケースが考えられるのですが、見て分かっていただけると思いますが、ドナー側の原因で移植が行われないケースが多いです。レシピエント側は今か今かと待ち望んでいますので。例えば、ドナーが4人見つかったとしたら、ドナーが一人の場合よりチャンスは4倍に増えるということですので、ドナー登録数はまだまだ増えていく必要があります。ドナーが10人、20人と見つかるよう骨髄バンクの事を多くの人に知ってもらい、登録してくれる人が一人でも増えることを望みます。
 ちなみに私は20歳になった時に登録しました。しかし、登録だけなら18歳から可能です。20歳になるとマッチングがされるようになります。何かきっかけがないと登録しようとは思わないでしょうが、この記事がドナー登録のきっかけになればと思います。

*骨髄バンクのホームページは左上のブログパーツをクリックして下さい。

2011年9月22日木曜日

内閣府「国際青年育成交流事業」

 内閣府の共生社会生活担当の部署が、毎年、「日本と諸外国の青年との交流を通じて青年相互の友好と理解を促進し、青年の国際的視野を広げ、国際協調の精神のかん養と国際協力の実践力を向上させることにより、国際社会で指導性を発揮できる青年を育成するとともに、青年による事業終了後の青少年健全育成活動等への寄与を目的」に、国際青年育成事業というものを行っています。現在、ドミニカ共和国にも10人の青年が来ており、大使館やJICA事務所などを訪れたり、廃棄物処理や上水道など現在進行中のプロジェクトの視察を行ったり、ボランティアの活動を視察したり、ホームステイをしたり、日系移民の方と交流したり、と非常に有意義な時間を過ごしているようです。そんな彼らと昨日、夕食を共にしました。
 全員とは話す時間がなかったのですが、いろいろな話ができました。たくさん質問を持っており、ドミニカ共和国や国際協力への興味があるという事を熱いほど感じました。また若いにも関わらず、冷静に物事を見たり、自分の考えを述べたりする能力がある事に驚かされました。
 今回、ドミニカ共和国に来た10人の大半は20歳前後の選ばれし優秀な人たちで、事前に研修を2種類受けてきています。そして帰国後はまとめの研修が待っているそうです。この事業は日本から海外へ青年を送るだけでなく、海外から日本に青年を送ることも行っています。事前の研修で、ドミニカ共和国の青年と日本で交流があったそうです。日本とドミニカ共和国の青年では、考える力や考え方に違いがあるのはもちろんですが、目的も少し違ってしまうように感じます。日本からの青年には、自身の将来の目標があったり、目標を見つけるために広い視野を持とうと努力したりと、今回の渡航で多くのものを得ようと努力している姿がありました。おそらく、そのレベルまでをドミニカ人に要求することは困難でしょう。ですので、ドミニカ人が日本に行くことが、ドミニカ人のためになるかどうかについては肯定的にはなれないですが、日本の青年たちがドミニカ人と日本で交流できることは、非常にすばらしい経験だと思います。私も日本で途上国からの研修生と交流があったことが人生の大きな転機になりましたから。
この事業、今回が18回目なので18年前からの事業だということになります。内閣府ができたのは平成13年1月なので、内閣府ができる前は別の管轄だったことになります。いったいどこがやっていたんでしょう? 私が国際協力に興味を持ち始めた頃には、もう行われていた事業にも関わらず、この存在を知らなかったのは非常に残念です。情報収集力が足りなかった…。日本に帰ったら、国際協力に興味がある人に、この情報を提供してあげたいと思います。また、この記事を読んでくれた人が、応募してくれると嬉しく思います。30歳まで応募できるそうです。
こちら

国際青年育成交流事業:http://www.cao.go.jp/koryu/

2011年9月9日金曜日

誕生日

 生まれて初めて、海外で誕生日を迎えることになりました。ドミ共の多くの人、別の国に派遣された仲間、日本の友人・知人、私の元担当患者さん、大勢にお祝いの言葉や、プレゼントを頂きました。とても幸せな気分で過ごした1日について、今日ここに書き残しておきたいと思いました。
 朝、いつも通り出勤しました。前日にカウンターパートが「明日誕生日だね」と言っていましたし、デスクには今月誕生日の人の一覧が貼られていますので、何かあるのかなって思っていましたが、まだ着任して1か月だし、活動らしいこともしてないし、さらっと過ぎるのだろうなぁ、と思っていました。しかし、職場に着いてビックリ。まず、私のデスクがある部屋の入口が風船で飾られていました。そして、みんな「誕生日おめでとう!」って言ってハグしてくれました。また、「みて欲しい患者さんがいるの」って言われて行ってみると、みんなに囲まれて、いつもの患者さんも一緒になって誕生日ソングを歌ってくれました。さらにお昼には、もっといっぱい集まってケーキとジュースも用意している部屋に、またまた「患者さんが待ってる」と言われて連行されました。こんなサプライズ、生まれて初めてで感動してしまいました。
 いままで誕生日の日も関係なく、日の出と共に出勤し、遅くまで残業し、後は寝るだけの誕生日をなにも疑問を感じずに過ごしてきました。でも今年のような素敵な誕生日も非常にいい、と思ったし、同じことをたくさんの人にやってあげたいって思うようになりました。これは今までになかった感情です。自分の事で精一杯なのに、人のことに構ってられるか、と日本で働いていたなら今でも思っているでしょう。ドミニカ共和国で、幸せって何なのか、という質問の答えに少し近づけたような気がした、大変貴重な一日でした。
 ちなみに、誕生日の日は午後から帰っていいそうです。それを知らずに午後からも「この患者さんみて」っていう(本当の)要望に応えていました。「まだいたの?」って最初に言われてから。笑

2011年8月25日木曜日

DALYs

ハーバード大学
 病気とは罹患して終わりではありません。治療するために医療費がかかったり、病気により働けなくなったり、障害を残したり、寿命を縮めたりします。放置しても治る病気から、難治性の病気まで、非常に多くの種類の病気があることから、病気が人の人生に与える影響も多種多様です。
 ハーバード大学のChristopher MurrayらがWHOや世界銀行と協力して開発した「健康に関する経済指標」があります。Disability Adjusted Life Years=DALYs(ダリーズ)と呼ばれ、病気に罹患したことにより失われた生産活動の総和と生命の短縮を、国ごと、および疾患ごとに算出した値です。例えば、「感染症で死亡する人の数は全死亡数の25%ほどですが、感染症によるDALYs損失は全損失の30%を占める」などのように表現されたり、「外傷によるDALYs損失は全損失の12%ほどだが、14歳以下に限定すると、人口の30%を占めるに過ぎないが、50%と高い」などのように書かれたりします。
 これを利用して、例えば、
  病気A:年間の罹患者数300万人、DALYs=50
  病気B:年間の罹患者数100万人、DALYs=200
だとすると、患者数は少ないが病気Bの治療法の開発や、社会政策の実行などをすべきだと考えることができます。これは患者の数だけでは判断できません。
 また、
  病気C:1億円あればDALYsを100減らすことができる
  病気D:1億円あればDALYsを500減らすことができる
とすると、1億円は病気Dのために使われるべきだ、と考えることができます。また、「病気」を「ある病気の治療法」を置き換えても同じです。ある病気の治療法Dにお金を使うべきです。
 さらに、
  病気E:DALYs=300、これを100減らすのに20億円かかる
  病気F:DALYs=200、これを100減らすのに10億円かかる
とすると、DALYsだけ見れば病気Eを何とかしないといけませんが、対費用効果で考えると病気Fへお金が使われるべきと考えることもできます。こうなった場合はどうすればいいんでしょう? お金があれば病気Eに対して対策を打つのでしょうが、無駄遣いに厳しい世の中ですから病気Eは置いておいて、病気Fにお金が流れるのかもしれません。実際にはもっといろいろな観点で物事を決定するでしょうから、これは一つの考え方として知っておけばいいと思います。
 ところで、理学療法士とは、障害を持った患者に、障害の治療や動作訓練、代替手段の指導などをして社会復帰を促進する職種です。DALYsは国毎の疾患別の値ですが、一人の患者に絞ってみると、理学療法士の腕次第で、その患者のDALYsを下げることができると思います。国中の理学療法士の質が上がれば、DALYsの値は変化する、そんな可能性を秘めた職種だと考えると使命感が沸きますね。
 骨折のDALYsを100としましょう。そして、医師の骨折の治療技術が上がればDALYsが30減る、理学療法士の障害の治療技術が上がればDALYsがさらに20減る、としましょう。しかし、骨折の原因である交通事故を減らす活動をすればDALYsが60減るとすると、医療よりも交通マナーの問題が大きいと言えます。この国の骨折患者をみていると、医療よりも交通マナーやルールの問題だな、と思うことが多々あります。「骨折5回目です」という患者がいるくらいですから。
 というわけで、今日はDALYsからの視点で自分の仕事について考えてみました。

2011年8月19日金曜日

実務経験


派遣前に勤めていた病院です

 青年海外協力隊には実に様々な職種があります。私のような医療系もあれば、農業系、スポーツ系、開発系、教育系、芸術系などに分類できます。医療系や教育系などでは、指定された免許や資格が必要な場合が多いですが、特に特殊な技能がなくても応募できる職種もあり、幅広い人にチャンスがあります。また、実務経験が必須条件のものもありますが、新卒の方でも応募できるものもあります。
 理学療法士の場合は、私が応募した時は、「理学療法士免許」「実務経験3年/5年」が必須で、さらに中には「小児の経験」「男性のみ」などの条件があるものもありました。理学療法士で応募する際に必須である「実務経験」について、私の経験から少し書かせて頂こうと思います。

*この記事は、一つ前の記事のコメント欄でいただいたMIDORIさんの質問に答える形で書いています。私の未熟な経験を元に、感じたままに書いています。勝手な想像も幾分か含まれています。決して一般論ではないので参考程度にご覧ください。

 実務経験は同時に社会経験も含みます。理学療法士としての「実務経験」と、社会人としての「社会経験」に分けて考えます。
  「実務経験」
 私が就職したのは急性期患者を扱う大学病院です。大学附属の病院が3つあり、どれも手術を行う急性期病院です。平均在院日数も少なく、次々に新しい患者が入院してきます。また、一般病院ではあまり見ない難しい病気の患者を担当することもありますし、非常に重症な患者もいます。反対に脳卒中や糖尿病、骨折などの一般的な病気の患者も担当します。非常に幅広い疾患を数多く経験できた、という意味では大学病院での4年間は現在に活かされているプラスの面です。
 急性期を脱して、回復期へ移行した患者は近隣の病院へ転院します。医師の紹介状、看護師の看護サマリー、理学療法士などの情報提供書を持って別の病院に行った後は、ほとんどの場合、経過は追えなくなります。自分の担当していた患者さんのその後は、患者さん自身が知らせに来てくれる場合を除き、不明のまま終了します。附属病院に回復期や維持期を持たない私の勤めていた病院の「実務経験」としてのマイナス点だと思います。
 ですので、国際協力を目指す・目指さない、いずれにしても、急性期から維持期までを同一組織内で見ることのできる病院に就職し、幅広い疾患の、幅広い時期の患者をみることができればいいと思います。しかし、理学療法士も就職先を選ぼうとすると就職難を実感する職種になってきています。このような都合の良い病院は見つからない可能性が高いです。その場合は、できるだけ急性期病院を選んだ方がいいと思います。急性期病院でリスク管理がきちんとできる理学療法士になった方が、開発途上国の病院で働く際には助けにきっとなります。なぜなら、診断もはっきりしない患者が多かったり、運動が人体に与える影響をしらない医師が処方箋を書いたり、緊急時の対応ができないスタッフの中で働いたりするからです。
  「社会経験」
 実習生の中には、「挨拶ができない」「無断欠席」「提出期限を守らない」「きちんとした日本語でレポートが書けない」「できない事から逃げようとする」「怒られると意欲を失う」など、社会人適正に欠ける人が多くいます。こういう人は社会に出て徹底的に矯正されるか、はじき出されるかだと思います。働き始めても1年毎に病院を変わっている、もっと悪いのは数か月で退職してしまう人は、開発途上国で2年なんて活動できるはずがありません。「実務経験3年以上」とあれば「勤続期間3年以上」と読み替えてもいいと思います。
 ただ、どのような所で社会人経験を積めばよいのか? できるだけ大きな組織に属して欲しいと思います。縦社会の中で、いかに自分の意見を主張するか。上の人とバトルするのも良いです。相手を怒らせると本性を見ることができます。本当に能力のある人間は、若者が食ってかかっても怒りません。逆に食ってかかったことが恥ずかしく思うくらい上手にあしらわれます。そんな経験も非常に重要だと思います。また医療職はプライドの高い人たちが多いので、そのプライドを守りつつ、相手の考えを変えさせる術も学んでいくべきです。私の尊敬する先生が「相手を変えるには、まず自分を変えること」と言っていました。簡単なことではありません。しかし、理学療法士である前に一人の人間として成長すべき期間として働いていただければと思います。

 まとめると、急性期から維持期まで一貫して患者をみられる、比較的大きな組織に就職し、理学療法士としての知識・技術だけでなく、社会人として成長することが大切だと思います。
 そして理学療法士としての知識・技術は、多く知っているに越したことはないですが、重要なのは基礎です。基礎とは、解剖学、生理学、運動学などの基礎の基礎から、理学療法の3本柱「運動療法・物理療法・基本的動作訓練」の原理・技術です。特殊な技術も多々あるようですが、基礎ができていれば、理学療法は可能だ、というのが私の考えです。特殊な技術の習得のために、高額な講習費を払って時間をつぶすよりは、基本的な技術を体得することの方が重要だと思います。
 以上、長々と書きましたが、書きつくせない細かい部分は、twitterに投稿していこうと思いますので、そちらも参考にして下さい。

2011年8月17日水曜日

視点を変えて「やるべき事」から「してはいけない事」へ

 これまでの隊員の活動は「ボランティア活動報告書」というもので確認ができます。これを書くことは「派遣に関する合意書」に定められたボランティアの義務であり、一般公開されるという側面から言えば、日本国民に対する報告義務でもあります。
 その報告書は2年間の派遣中に5回提出することになります。第1号は赴任3か月後、第2号は赴任半年後、第3号は赴任1年後、第4号は赴任1年半後、第5号は帰国前、に提出します。第2号報告書に活動計画表を添付する必要があるため、これを提出する12月末までに具体的な活動計画案ができればいいなぁと思います。
 私の配属されている病院には過去5人の理学療法士が日本から派遣されています。その人たちの報告書ももちろん一般公開されており、JICA地球ひろばなどで閲覧することができます。そこに書かれた問題点と、私が思う問題点は完全に一致していました。
  NGO団体である故の資金不足。低い給与。
  患者数が多く時間がない。
  医師の指示通りのことを流れ作業のように行う。
  理学療法を行う上での基礎知識がない。
  理学療法自体の知識がない。
  患者の評価を行わない。(行えない)
  カルテを書かない。(書くことがない)
など。
 上記の基礎知識がない、というのが致命的で、数学、物理などの知識がないと、筋の評価や、動作の評価などができないですし、物理療法の意義や効果も理解できません。また解剖学・生理学はもちろん、病気の知識もないので、血圧測定、腱反射、感覚検査の目的や重要性も理解できません。これらを解決するには分度器の使い方からまず教育する必要がありますが、非現実的です。なので、患者評価をドミニカ人理学療法士に行ってもらう事は不可能かと考えます。こう、早々に「不可能」なんて言ってしまうと、問題から簡単に逃げ出しているように聞こえるかもしれませんが、実際、過去の隊員たちが懸命に評価の重要性を訴え活動してきて、結果「困難極める」と判断してきていますので、同じことを繰り返すべきではないと考えます。
 評価ができないとなると、カルテに書くことが何もありませんので、「カルテを書け」と言うこともできません。初めての患者でいろいろ検査・測定などの評価をすればカルテに書くことが盛り沢山ですが、長期の患者で特に変化を見せない場合は、カルテに「著変なし」と一言書いて終わります。評価した結果の「著変なし」です。しかし、この国の理学療法士の場合は、評価していないので「状態不明。変化分からず」というカルテを毎日書くことになるでしょう。(何もカルテは評価したことを書くためだけにあるのではないのですが、カルテについては別の記事できちんと書きたいと思います。)
 「患者さんの評価をした上で治療プランを決めましょう」という、ごもっともな助言は無意味なものになるので、これまでとは違ったアプローチを考えないといけません。例えば、安静の大切さを伝えるなど、現地理学療法士が患者に与える害をいかに減らすことができるかを目標にしてもいいかもしれません。痛みを与えながらのストレッチは有害であること、頚損の患者を急に起こしてはいけないこと、低血糖症状の人に自主トレをさせてはいけないこと、などなど。「やるべき事」を教えるよりも「やってはいけない事」を教えて、事故のないようにすることなら可能かもしれません。実際、病院内での事故がこれまでどれほどあったのかは今、知らないので聞いてみようと思います。

2011年8月10日水曜日

任地の病院にやってきました。

デスクです
 今日で病院に来てちょうど一週間です。まだ大した活動はしていません。たまに「この患者さんみて」と言われて評価と治療をする程度です。基本的にはデスクで、活動計画を立てるための準備をしています。
 まだ全てを見回せたわけではありませんが、こちらのPTの印象や今後の予定について、初期の段階で書き記しておきたいと思います。
 まずはこちらの理学療法が理学療法には見えません。病人専門のマッサージ店、および病人専門のトレーニングジムのようです。評価もなしに患者が来たら足に重りを巻いたり、ダンベルを持たせたり、プーリーを行わせたりしています。その後、暴力的に見える「関節グリグリ」「筋肉モミモミ」が始まります。
 体調が悪くなった患者には血圧計を巻いて、聴診器も当てずに加圧して、「うーん、分からない」と言っています。(分かる時があるんでしょうか?私が聴診器を当てて測ったら低血圧になっていました。) 病人専門だが病気には対応できないという致命傷があります。ちなみに、低血圧だと言ったのに、寝ていたその患者を起こして、プーリーの前まで歩かせて「はい、やって」と。
 銃創による頸髄損傷で四肢麻痺(現在1か月で随意運動なし)の患者の初回、検査もせず本人からだけの情報で「感覚は全くない」と言っていました。本当か?と言わんばかりに針を取り出して検査すると残存レベルでC5でした。腱反射もみる気配がなかったので私がみましたが、興味がなさそうでした。こちらの評価とは、問診票に書いてあることを患者の言う通りにチェックすることのようです。
 評価はしないし、評価結果を教えても突拍子もないことをします。だからリスク管理なんて到底できなくて、座れない脳卒中の患者をプラットホームで端座位にして、目も手も離してしまうこともあります。当然、後ろに倒れましたが、カウンターパートが「あれは良くない」と叱っても「彼は座っていた」と言い訳してしまいます。座れるか座れないかの評価ができていないし、座れないと分かっていたとしても、理解できない事態です。
 治療できるようになるには、長い長い道のりが必要だと思いますが、その長い道のりを誰も歩もうとしないから、このような状態でのベテラン、中堅ができてしまうのです。もう中堅以上になるとほとんどが学ぶ姿勢を持たず、高いプライドを持ちます。一部の熱心なPTや、若い人(学生も)が目を光らせて私のやることを見てくれますが、ほんの一部です。
 高い鼻を折ってまで勉強しろ、というつもりは全くなく、それで本人がいいなら、私はそれでいいと思います。そもそも私は、「学びたいが学べない人に、学ぶ機会を与えたい」というスタンスでここまで来ました。鼻を折ってしまうと、もう一生勉強しない人になってしまうかもしれないし、そもそも自分がそこで活動しにくくなりますし。だから、学びたいと思っている人を探すことから始めようと思います。学びたいと思っている人には、できるだけ最高のものを提供できるように準備したいと思います。学びたいと思っている人を魚釣り式に探すが、宝探し式に探すか、難しいところです。言葉の壁がまだまだあるので、評価・治療をする場面を見せつけて興味ある人を引き寄せる魚釣り式でいくかもしれません。引っかからない可能性も高いですが。まぁだめなら宝探し(スカウト・勧誘)を始めます。笑
 数か月は様子見、お互いをよく知る期間、と言われるのに、まだ1週間です。なにも偉そうなことはできません。積極的にコミュニケーションを取ろうと思います。今日「あなた嫌い。朝、私が働いている所に来なかったでしょ。」と昼前に言われました。そんなことを言うために、わざわざ患者さんから離れて、今そんなこと言う時か?と心で思いながら「ごめんごめん」と話を流しました。この間、プラットホームで患者さんを倒してしまったスタッフでした・・・。

2011年7月26日火曜日

活動計画

 任地となる病院の担当者から活動計画をいただきました。関心のあるテーマ、短期目標、長期目標、目標達成のための方法などが書かれています。ワクワクしながら翻訳してみました。
 関心のあるテーマには
  急性期患者の扱い
  神経促通法
  伸長運動
  装具使用患者の扱い
  軟部組織技術
  歩行の評価
 が挙げられていました。軟部組織技術とは何なのか分かりませんが、私が無知なだけなのでしょうか?後、神経促通法とは日本でも一部(多く?)で行われているPNFのことなのでしょうか?書類にはたくさん書かれていたので、具体的なものかと思ったのですが、訳してみると案外、漠然とした関心のように思います。
 短期目標には
  解剖学の基礎知識を得る
  可動域測定
  筋の評価
 が挙げられていました。訳せば訳す程、なんだか話があっちへ行ったり、そっちへ行ったり、まとまりがないことが分かります。何から手を付けていいのか、私はこれをみてイメージが湧きませんし、おそらく向こうも同じでしょう。
 また別の欄には、新たな治療手技の獲得、技術・知識の向上が書かれていました。
 今日いただいた計画書は文章能力の問題なのか、知識の混乱なのか、その両方なのか。よく分かりませんが、問題点を見つけて、その問題に対してどういう技術を適応するのか、禁忌は何なのか、全体を統合と解釈しながら理学療法を行うことは難しいということが、この計画書から分かった気がします。
 ちなみに急性期からPTが患者に関わることは、患者教育にはいいと思います。間違ったことを患者に吹き込むPTがいるのは日本でも問題の一つですが・・・。ただ、患者に触るには、患者に害を与えないことが条件です。日本でも下手な暴力的な関節可動域運動で患者を骨折させた事故が何例もあります。はたしてこの国で急性期からPTが患者と関わってメリットがあるのか?何もしない方がいいことの方がPTの範疇では多いことを認識しないといけません。
 まずは基礎知識から入り、運動療法と評価法、装具療法、と進めていこうかと思いますが、任地に行ったらよく話し合わなければなりません。10年以上ボランティアが派遣されていて、いまだにこのレベルか!、とカリカリするのではなく、まぁこんなもんだ、と割り切ってスタートを切ろうと思います。任地で働くことが楽しみであることには変わりありません。

2011年7月18日月曜日

ENTRENA(エントレーナ)

ドミノ
 語学訓練が始まって2週間が終わりました。明日から3週目、折り返しです。語学学校の名前はENTRENAです。JICAやKOICAの人をよく受け入れているようです。午前中は1対1の完全プライベートレッスンで、午後からはグループレッスンになります。以前は、プライベートレッスンが午後だったこともあるそうです。きっと非常勤で働いている講師の人が多く集まれる時間にプライベートをしているのだと思います。今回は午前中の方が講師が集まったのでしょう。午前中だけ授業をして帰る講師や、朝から夕方までずっと授業をしている講師がいます。働き方は多種多様なようです。
 講師の教え方やその上手さには、かなり差があるようです。みなそれぞれ良い所、悪い所あります。どのような点を強化していかなければならないか講師が見抜ける場合もあれば、生徒の方から注文しないといけない場合もあります。一緒に語学訓練を受けている私たちJICAの6人の内、半分が日本語教師ですから、講師を見る目、評価する力は相当です。話をしていると勉強になります。
 私の先生の場合は、会話している中から、できていない所に絞って文法的なことを学習したり、今後、仕事で使えそうな表現を集中的に学んだりしています。スペイン語講師経験も長いようで、レベルは高いと思います。また、グループレッスンでは、みんなで市場に出かけて買い物の練習をしたり、ダンスの練習をしたり、ドミノというドミニカ人が熱中するゲームを遊びながら学んだり、という活動も含まれます。バスの乗り方の練習の日は、あいにくの雨で実戦練習はありませんでした。
 と、なかなか充実はしているのですが、やはり働きたい。。。先日、別のホームステイ先のママが「上腕二頭筋腱炎」という診断で4か月くらい理学療法に通っていると言っていたので話を聞いてみました。超音波などの物療を受けてから、肋木や輪転運動器で痛みを我慢しながら肩を動かしているそうです。
 また、松葉杖を使っている人の100%(今の所、3人見ました)が、不適切な長さやグリップ位置での歩行をしていました。働き始めると、もっともっと課題が見えてくるでしょうね。

2011年7月10日日曜日

ホームステイ&語学研修中

うちの無邪気なちびっ子
 ドミニカ共和国(以下、ドミ共)に到着してから数日、各種オリエンテーションがあった後はシニアボランティアを除き、皆ホームステイとなります。私は、小さな子供から働いている子までいる家族にお世話になっています。このお家は、以前KOICA(1991年設立の韓国国際協力団)の青年を受け入れていたようで、慣れています。
 KOICAの若者とは語学学校でたまに顔を合わせます。かなりスペイン語を頑張っているようで刺激されます。聞くところによると、KOICAはJICAと違い、自国での語学研修が少なく、代わりに任国での研修が長いそうです。昨日、食事したフライドチキンのお店は中国人の方が経営していたのですが、そこの若いお姉さんは語学学校には通わず、独学で人と話しながらスペイン語を覚えたそうです。やはり話すことは大事なんだなぁ、と感じました。日本での語学研修では教わらない「ドミ共語」があるので現地でのトレーニングは欠かせません。
 ただ、せっかくドミ共に来たのに、働かずに語学だけ学んでいるのは、少しもどかしい感じがします。働きながら、病院のスタッフや患者さんなどと話しながらスペイン語の能力を上げればいいのに、なんて思ったりします。限られた2年間という期間がもったいないような気がします。(特に現職教員参加制度で来ている人は2年後の4月までに帰らなければいけないのに。)臨床から離れて3か月、治療できないストレスが溜まっているのかもしれません。何が一番いいのか、終わってみないと分からないかもしれないし、人によって違うかもしれません。
 ホームステイ先では特にストレスなく過ごせています。食事はおいしいし、過度に干渉せず勉強する時間を与えてくれますし。ただ、私がベッドで寝ているのに、リビングのソファの裏の床で寝ているおじさんがいるのは少し気になりますが・・・。ちなみにこのおじさん、いったい誰だか分かりません。笑 このおじさんともう一人、紹介がなかった人がいます。ドミ共の離婚率は90%ほどで家族関係が複雑なのかもしれません。

 最後に、ドミ共語を少し。
¿Cómo tú 'ta'?
 →¿Cómo tú estás? 元気かい?
'Toy bien.
 →Estoy bien. 元気だよ。
Él está guapo con ella.
 →彼は彼女に怒っている。(guapoがenojadoの意味)

2011年7月3日日曜日

引き継ぎ

ドミ共弁当(220円)
 以前、青年海外協力隊が交代として派遣される際に、引き継ぎがどのように行われているのか質問されたことがあります。質問されたときは、私も分からない状態でしたが、回答できるようになってきましたので、この場で回答させていただきます。
 職場が変わる際や、新人に仕事を託す際など、「引き継ぎ」が非常に重要になってきます。今行っていることが、「現状でOK」なのか「改善が必要なのか」。そしてそれぞれ、どのような経緯で今のやり方になっているのか。それを知ることで、過去にあった失敗や成功を活かして次に進むことができます。
 私は理学療法士養成校を卒業した後、就職した大学病院で、いろいろな仕事が与えられました。物品請求、修理依頼、朝のコーヒーの入れ方など、先輩に教えてもらいながら覚えました。すぐには全て覚えることは無理で、何度も聞いては覚えていきます。
 そして、次に私の後輩となるスタッフが入職すると、また同じように仕事を引き継いでもらいます。いかに分かりやすく、無理のないように引き継ぎができるかを意識して行いました。一度にたくさんのことを言っても覚えることは不可能だと、私が入職したときに感じたので、簡単なことから引き継ぐようにしました。そして簡単なことの中でも、今必要なことから実際にやってみながら教えることにしました。例えば蛍光灯が切れている場合、「蛍光灯の交換はどこに頼むか知ってる?」から引き継ぎが始まります。「これを書いて、そしてここに電話するんだよ」と教えて、実際にやってもらいます。
 しかし、この方法は、教える人と教えられる人が同時にいる場合のみ可能です。青年海外協力隊で、交代で行った際、前任者がもう帰国していない場合もあります。その場合の引き継ぎはどうなっているのか。私の例で書きますと・・・、
 私の前任者は3月末で日本に帰ってきています。そして私の派遣が6月末ですから、現地で顔を合わせることはありません。なので、直接話を聞くとしたら日本で、という事になります。前任者の連絡先は、派遣前訓練の途中で、知ることができます。そして派遣前訓練と派遣の間の短い期間に、アポイントを取って直接お話することができます。ただ住んでいる所が遠くて直接会うことは難しい場合もあります。私はたまたま前任者のブログを見つけ、早い時点から連絡を取らせていただきました。
 直接会ったり、メールでやり取りする以外に、報告書を閲覧する方法もあります。そこには、どのような所で、どのような活動をしているのかが書かれており、それは一般公開されています。JICA地球ひろばの図書室などに所蔵されており、コピーも可能です。
 また、任国に派遣されると、ボランティア調整員という方がいて、事情に詳しいです。任国のボランティア事業を広く見渡しておられるので、「今後、こことここの結びつきを強くしていきたい」とか、「こういう目標で今まで頑張ってきている」など、いろいろ話を聞くことができます。また勉強もされており、調整員の方から「AKA博田法」など専門用語も飛び出します。
 このように前任者からの説明、担当調整員からの説明、報告書の閲覧により、引き継ぎがなされます。これにより、これまでの流れを汲みとり、効率よく前進することができるようなシステムになっていると感じます。
 私の場合、派遣される病院からビデオレターをいただき、早く行きたい、と胸をワクワクさせています。その前に明後日から始まる1か月の語学訓練で、しっかり実践的なスペイン語を身に着けようと思います!

2011年6月29日水曜日

ドミニカ共和国に到着しました。

 6月28日火曜日、午前11時、ドミニカ共和国に到着しました。飛行機が非常に静かに着陸したからか、飛行機がまだ奇跡の乗り物のような認識だからなのか分かりませんが、乗客一同拍手喝采でした。到着後、荷物を受け取り、ボランティア連絡所に入りました。車で移動中、カリブ海を左手に見ながら、強烈なスコールにも歓迎され、到着した連絡所は、駒ヶ根訓練所を小さくして警備を強化した感じの所です。テレビは繋がっておらず、ネット環境だけはこのように整っています。食事はキッチンがあり、各々が作って食べることができます。今日は一緒に行った日系社会ボランティアの皆さんに夕食を作っていただきました。
 明日からは様々なオリエンテーションや手続きがあったり、訪問する所があったりした後、週明けから語学訓練に入ります。しかし、週末からホームステイ先に移りますので、語学訓練はそこから始まっているようなものだと思います。
 早くスペイン語が話せるようになるのはもちろんですが、まずは派遣前訓練が修了した時のレベルに戻らなくてはいけません。入国の際に¿De dónde viene?と聞かれただけなのに、なかなか理解できませんでしたし。笑

2011年6月26日日曜日

いよいよ、出国です。

修了式の日の舞台
 派遣前訓練が終わって2週間半、私は比較的、長く日本に残っている組です。早い人は20日に出国しています。この宙ぶらりんの期間に、普段はなかなか会えない遠くにいる友達に会ったり、旅行したりしました。旅行先ではいろいろ写真を撮り、日本とはこんな国だよ、って見せれるようにと思い、旅してきました。日本は、3月11日の大震災で莫大な被害を受けました。海外では、その被害が日本全土に広がっていると思われている傾向があるようなので、現在の本当の日本の姿を伝えられたらと思います。被災地ボランティアをした仲間からの報告もあるので助かります。
 明日、私はついに日本を発ちます。成田から一度ニューヨークに行き、一泊した後、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴに入ります。そこで約1か月、語学訓練などがあり、8月頃からサンティアゴという都市で理学療法士として働きます。いよいよ、という感じです。
 大きな荷物は先日、成田空港に送ってしまいました。そして今、残りの荷物をパッキング中です。スーツが持ち運び不自由ですね。後、電子機器(パソコン、カメラ、ビデオカメラなど)とその充電器などの付属品を詰めたバッグは非常に重たくなってしまいました。預け荷物にするのは怖いので、手荷物にしますが、肩が凝りそうです。
 さっき、訓練所でスペイン語を教えてくれていた先生と電話で話しました。「たくさんスペイン語を話してペラペラになってね。今日はしっかり寝る事!」と言われました。飛行機で寝れるかも分からないですし、明日、朝早いので、(朝7時55分の伊丹発成田行き)、さっさと荷造りを終えて寝ようと思います。朝、地元を離れる前にお見送りに来てくれる人がいます。また伊丹空港でお見送りしてくれる人もいます。みんなに支えらえて派遣されるんだ、ということを2年間忘れずに活動しないといけないなぁと思います。
 では行ってきます!!!

2011年6月23日木曜日

親孝行って難しい

 大阪に帰ってきてから初めての投稿です。というのも、実家にインターネット環境がなく、昨日やっとネットが使えるようになったからです。書くネタはたくさんあるんですが、何から書こうか・・・。
 ネットが使えるようになっても使う人がいなければ意味がないんで、ただいま母親にパソコン教育中です。パソコンは以前、私が使っていたものをプレゼントしました。ネットブックです。
 最初にスカイプの使い方を伝授しました。無料インターネット電話です。アカウントを作成して、自宅内で通話してみました。「これタダなん?」と疑っていましたが、タダだと理解すると感動していました。さっき抜き打ちで発信してみたけど、ちゃんとつながることができました。きっとテレビ電話は通信事情から察して難しいと思うので音声のみになると思います。その辺のことも伝えておきました。
 後、メールアカウントも作って、メールの見方、送り方を教えて、さっきまで、自宅内でメールで会話していました。たまに、「ちっちゃい'つ'どうやって打つん」と声で通信することもありましたが、時間をかけて慣れてもらうしかありません。なんせ、また右手の人差し指のみでキーボードを叩いているレベルですから。ダブルクリックも初めての人には意外に難しいようです。マウスの固定ができず、クリックの時にカーソルが動いてしまいます。新たな発見でした。笑
 大阪に帰って親孝行をしないといけないなぁ、とは長野にいるときから考えてはいたんですが、なかなか上手くいってません。うるさいくらい干渉してくるし、質問攻めに最初は疎く思ってしまいました。訓練所で部屋にこもり一人で勉強ばかりしていて、それがとても居心地が良かったせいか、そっとしておいてくれない今の環境がストレスになったりしています。でもそれが母親なんですよね。うるさいくらいが普通なんですよね。そっとしておいて、なんて贅沢なわがまま認められないですよね・・・。
 だから、しっかりスカイプとメールを覚えてもらい、元気な声や、写真などを受け取ってもらえるよう教育中です。学んでいる母親の、まれに見る一生懸命さに感動なんてしちゃいました。
 後、親孝行かどうかは分かりませんが、我が家初の地デジ対応テレビをプレゼントしました。どうしようか悩んでいたようなので。電気屋さんで見るより購入したテレビは大きくて、届いたときはビックリしましたが(正直、こんな大きいテレビ要らんやろ、くらい大きかったのですが)、喜んでいたのでよしとしました。
 ただ、究極は、健康で無事に2年後帰国することだと考えています。帰るまでは不安を与え続ける親不孝者ですから、安全対策・健康管理を最優先にしながら、活動していこうと思います。

2011年6月8日水曜日

駒ヶ根での最後の夜

皆、各々の道へ
 2日前にあった語学の最終試験の結果が返ってきました。スペイン語はみな合格したようです。本当に良かったです。苦楽を共にしたスペイン語の仲間が無事、派遣前訓練を修了し、任国へ行けることを非常にうれしく思います。お互い協力し合ってきたからこそ乗り越えることができた65日間だったと思います。みんなありがとう!
 最後の夜は、近くのホテルの宴会場を借りて、最後の宴会を行いました。みな思い出に記念撮影を撮り続けていました。私はと言うと、カメラの充電器を自宅に今日の夕方送ってしまったので、明日の壮行会のためにカメラは使わずにいました。でも人のカメラでいろいろ撮ってもらいました。いただく機会があればその写真、もらおうと思います。
 部屋にはもう必要最低限のものしか残っていません。勉強道具も送ってしまいました。後は明日、支えてくれた仲間、スタッフ、地域に感謝をして大阪に帰るだけです。2年後、みながまた元気な姿で出会えることを祈りながら、最後の夜は更けていくと思います。

2011年6月6日月曜日

派遣前訓練もいよいよ終わります。

 駒ヶ根での派遣前訓練も後3日になりました。今日は最終の語学試験があり、なんとか終了しました。これまで勉強してきたことを発揮することができたのではないかと思います。だからこそ見える課題が残されましたが、これは大阪に帰ってから、ドミニカ共和国に行ってからの課題です。とりあえずは小休止、ということで、今日はリラックスしたいと思います。
 中間試験でもそうでしたが、語彙の乏しさに今回も苦しめられました。分からない単語が頻発すると読む気力もなくなるし、ましてや前後関係から意味を推測する、なんてことはできません。そして、文と文を結ぶ接続詞はたくさんあり、適切なものを選ぶ、という事も意味が分からなければ不可能です。語彙を増やすとともに表現の幅を広げなければいけないなぁと思います。同じことでも何通りもの言い方で表現できるようになるのが理想ですね。
 さて、今週の木曜日に退所して大阪に戻り、あとは派遣の日を待つのみです。公用旅券や飛行機の搭乗券も渡されました。退所後の予定もぎっしり詰まっています。この調子だとあっという間に日本を去る日がやってくると思います。
 まず、帰ったら同級生やお世話になった先生方と和歌山でキャンプに行きます。これは毎年GWあたりに行っている恒例行事なんですが、今回は私のために延期してもらっています。長野のおいしいお酒「夜明け前」を持っていくつもりです。
 そして次に大阪府・大阪市への表敬訪問があります。今日「大阪市国際協力大使」の委嘱について、という手紙を受け取りました。謹んでお受けしようと思います。
 後、友達に会いに東京と福岡へ行く予定です。東京に行く際に「第五福竜丸展示館」に行きたいと思っていたのですが、予定していた日が休館日で断念することになりました。なので「東京大空襲・戦災資料センター」に行こうと思いましたが、そこも休館日でした・・・。その日は月曜日なんですが、朝から19時の大阪へのフライトまで何をしようか考え中です。
 福岡の友達は、この訓練期間中に赤ちゃんが生まれた、という嬉しい報告をうけ、ひと目見に行こうという計画です。ただ、せっかく九州に行くのなら、と先日、由布院の温泉宿を予約し1泊一人旅をする予定にしました。ドミニカ共和国に行くとお湯につかることはなくなります。それどころか、シャワーは水しか出ないと聞いています。派遣前に良質の温泉を堪能しようと思います。
 後、壮行会もいくつか企画していただいています。ありがたいことです。みなに安心して送り出してもらえるよう、元気な姿であいさつして出発したいと思います。
 さて、読んでる人にとっては、あまり興味のない内容ばかりを書いてしまいましたが、もう一つ。写真はこれまで訓練中に撮影した写真で作ったコラージュで、これを自動で作ってくれる無料ソフトがあります。Shape Collageというソフトです。無料版では作成したコラージュにソフトの名前が挿入されてしまいますが、有料版にアップグレードするとそれは消えます。面白いですよ。

2011年5月30日月曜日

震災ボランティア

PT学会で販売されていたチャリティーTシャツ
 昨日、日曜日に、JOCV経験者で理学療法士の方が、震災ボランティアの報告や私たちにできることについてご講義いただくため、駒ヶ根訓練所に来ていただきました。大阪の方ですが、金曜日から開催されている第46回日本理学療法学術大会に参加されていましたので、宮崎県から遠路はるばるお越しくださいました。宮崎県から飛行機で一度東京まで飛び、その後バスで長野県駒ヶ根市まで来る、という経路で、土曜日の深夜に到着されました。そして日曜日の朝から勉強会を開いてもらい、お昼のバスで帰阪されました。もの凄くハードスケジュールです。今回のこの日程だけでなく、各地で行われているマラソンの救護ボランティアや、いろいろな病院などでのリスク管理勉強会の講師など、日々お忙しく過ごされています。友人の病院にも最近、連続講義で行っていただいています。今回は2時間強の単発講義です。
 講義の内容は、被災地の現状、JOCVのOBとしてできること、専門性に捕らわれないこと、笑いの力、など、隊員活動から繋がる今の活動についてお話いただきました。本当はそれぞれに2時間割いても足りないくらいの豊富なお話をお持ちなのですが、限られた時間でたくさんの内容を私たちに示していただきました。
 被災地に行くと、いろいろな仕事があります。靴を提供することで歩いていただく、情報が氾濫したホワイトボードの整理をする、床に敷いているビニールシートをガムテープで固定し躓かないようにする、談話スペースを作るなど、必ずしも専門性を持った活動ができる、というわけではありません。パッチアダムスの映画にもあるように、人を笑顔にするには自分の専門だけに固執してはいけない、という事が被災地では特に当てはまるのだと思います。また、勝手に行って、勝手に理学療法士を名乗って、勝手に活動することはできません。やはり、被災地にもシステム・ルールがあります。問題は一度出来あがったシステム・ルールは変えることが難しい、ということ。最初にきちんとしたシステムやルールができなければ、後になって修正することは困難です。最初にきちんとしたシステム・ルールを作るためには、日ごろからの良好な関連職種との連携、職能団体と行政との関係、職能団体自体のシステム構築が必要だと思います。それがあって初めて発言する力が産まれるからです。
 講師の方も災害ボランティアに参加するために、いろいろ情報が混乱しており苦労されていた様子でした。気持ちだけでなく能力がある人が、スムーズに活動に入れない理由には、システムの脆弱性、マンパワーの不足と疲弊など、さまざまな要因があると思います。これから派遣前の短い期間ですが、被災地でボランティア活動する仲間がいます。できることはなんでもして欲しいと思います。しかし、自分たちは限られた時間だが、被災地の人たちはずっとそこにいる、ということを忘れないで欲しいです。入れ替わり立ち替わり来るボランティアからのちょっとしたストレスも積りに積もれば大きなストレスです。プライバシーの尊重や不用意な声掛けなど、気を付けていただきたい、と思います。特に若い人には。

2011年5月28日土曜日

派遣前訓練クライマックス~語学交流会~

海は誰に聞いても、凄くキレイだそうです。

 派遣前訓練が始まって53日目になりました。残すところ後12日。2週間を切りました。来週いっぱいは8:45~14:50まで毎日語学の授業があり、それが終わると語学の最終試験です。もう派遣前訓練も最終章に入っているのです。
 その最終章での大きなイベントの一つに「語学交流会」というものがあります。日本に来ている海外からの人(研修生や留学生など)を招いて、これまで学んできた語学を使いもてなすというものです。各クラスに1~2名のゲストが入り、クラス毎に内容を考えます。私のクラスには、ドミニカ共和国の女性の方と、メキシコの男性の方が来られました。
 二人ともとても気さくで、たくさん話してくれました。私たちにも分かりやすいように、ゆっくり、こちらのペースに合わせてくれていたのが分かります。ドミニカ共和国は私の任国ですので、たくさん質問させてもらい、ドミニカ共和国がより一層近く感じることができました。またドミニカ共和国で会う約束をし、FACEBOOKでも友達になり、派遣がますます楽しみになってきました。
 それにしても、入所したときは、スペイン語で何かイベントを行うなんて考えられなかったですが、なんやかんやで皆、いろいろな事を話していました。ちゃんと勉強してきたんだなぁ、と実感できたとともに、語学の先生にも感謝です。基礎をしっかり叩き込んで、後は現地で実際にスペイン語を使いながら話せるようになる、という方針で、文法をきちんと系統立てて教えてくれています。訓練中に話せるようになるのはもちろん不可能です。語彙が圧倒的に不足しています。しかし、文法の知識はつけることができます。忘れてもノートを見ればわかるように、ノートもきちんと作っています。夜は、最近、ノートの肉付け作業をしています。よく出る不規則動詞の活用を書いたり、似ている動詞の活用を並べて書いたりして、後で使えるものになるように頑張っています。
 今日の語学交流会でも、先日あったドミニカ共和国のJICA事務所とのテレビ電話でもそうですが、スペイン語が話せるようになると、どれだけ楽しいだろうか、と思います。語学を勉強する醍醐味は、自分の気持ちが相手に伝わったときの喜びです。楽しみながら語学を習得できるように、今はあともう少し訓練所で必死に基礎を学ぼうと思います。

2011年5月25日水曜日

パキスタン障害者社会参加促進プロジェクト

障害問題啓発動画がアップされました。
パート1~6

パート7~11

パート12~15

パキスタン障害者社会参加促進プロジェクト
A STAR Project
(Abbottabad Social participation Through Awareness Raising)
日本語:http://sky.geocities.jp/a_star_project/index_j.html
English:http://sky.geocities.jp/a_star_project/index.html

2011年5月22日日曜日

現時点での将来の目標

 医学には、1:治療医学、2:予防医学、3:リハビリテーション医学があります。将来の目標をここに書いてみようと思うのですが、その前に、この3種類の医学について書きます。

  1:治療医学
 治療医学とは、病気を治療するために系統立てられた医学であり、大きく分けると内科学(薬を使って病気を治す)、外科学(手術によって病気を治す)、物理医学(物理的エネルギーを使って病気を治す)の3つに分類できます。今は、内科は循環器内科や神経内科など、外科は呼吸器外科や消化器外科など、細分化されております。
  2:予防医学
 予防医学とは、病気になる前から、病気にならないように対策を講じるために用いられる医学の一分野です。労働環境や衛生などの公衆衛生学の分野や、食生活や文化などの社会学の分野、性教育などの教育学の分野など、いろいろな学問がここに応用されます。
  3:リハビリテーション医学
 病気や、病気による障害のために、社会参加や家庭復帰が制限される状態を、別の代替手段で解決しようとしたり、職場環境や家庭環境を改善させたり、障害者が暮らしやすいルール作りをしたりするために、医学的な考慮をする分野です。

 そして、それぞれの医学に携わる人々の例として、次のような職種があります。(括弧内はごく一部に限られた活動を行う職種)

  1:治療医学
 医師、看護師、(薬剤師、臨床工学技士、理学療法士、作業療法士など)
  2:予防医学
 医師、保健師、(理学療法士、栄養士、教師など)
  3:リハビリテーション医学
 医師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚師、(ソーシャルワーカー、政治家など)

 私は1の中でも物理医学、そして3を行ってきました。そして、今後、進学して看護師・保健師の勉強をしようと考えています。今まで専門外だった予防医学や、医師の補助として治療医学にもう少し携わりたいからです。
 なぜ、予防医学なのか、と言うと、例えば、安全な飲み水が手に入らず、下痢で死亡したりする地域があると知り、病気を治すだけでは解決できない問題が存在するという事。障害を治療したり障害者を社会復帰させることだけでなく、障害の原因である病気を減らす必要性もあると感じる事が理由です。
 これは遠回りをしているようにも見えます。3つの医学、すべてやりたいなら医者になれば良かったのです。それを理学療法士、看護師、保健師と3つの資格をバラバラに取るのは奇妙に見えるかもしれません。しかし、理学療法士として働いてきたからこそ見える医者とは違った視点や、看護師・保健師の勉強をする中で得られるもの、というのはこの経路をたどった人にしか持ち合わせることができないのではないかと思います。
 少し、専門外の人には読みにくい内容になってしまいましたが、派遣約1か月前、いい機会なので書いてみました。

2011年5月14日土曜日

自主講座「高山病」

世界一高い首都ラパス(約3600m)
 あっと言う間に日が過ぎます。語学の授業では、線過去・点過去の違いに翻弄されながらも、現在完了、過去完了が仲間入り(!?)し、さらに難しくなってきました。これはもう慣れるしかないので、日々、問題を解きながら、1歩1歩進んでいきます。訓練中に話せるようになるのではなく、基礎をしっかり固めることがスペイン語の先生の目標だし、私もそうすべきだと思います。
 さて、派遣前訓練では、さまざまな専門を持った訓練生がお互いの知識や技術を共有しあうために、「自主講座」というものを開催することができます。申請書を提出し、承認されればJICA側がいろいろ支援してくれます。配布資料の印刷も参加者がコピー機で各自お金を出して用意する必要はありません。JICAが用意してくれます。ありがたいものです。現在までに2件、承認されており、その1つが私の「息切れをしない生活のために」という講座です。高地で活動される隊員が少なからずいますので、その人たちに、高山病に関する知識や、息切れしやすい動作や、息切れしにくい代替動作について解説しようと思います。
 資料はCOPD患者に対する作業療法の文献や、メルクマニュアルの高山病の項、あとは高校の理科で習うような部分です。酸素分圧の低い土地で、いかに酸素消費量を減らした生活ができるか、は、COPDの患者さんに対する動作指導に似ています。胸郭の動きを制限するような手を拳上した状態での動作、お腹に圧力がかかるような足元での動作、息を止める動作、早い動作、力が必要な動作は、酸素分圧の低い土地でさらに酸素摂取量を減らすことになるので息切れを誘発します。それぞれがどのような動作なのか、受講者参加型のワークショップ形式で、みなさんと考えていきたいと思います。
 3日後、火曜日に開催です。うまくできるかな?
 ちなみにこの講義を簡略化したものを、スペイン語のテクニカルクラスの時に発表しようと思います。なのでスペイン語バージョンも用意しないといけません。

2011年5月6日金曜日

中間試験

 今日で派遣前訓練が始まって31日目になります。65日間ある訓練も1か月を超え、折り返し地点にきたこの日、中間試験というイベントがありました。スペイン語のリスニング試験、ライティング試験、オーラル試験のtrilogyです。
 朝8時45分から30分間のリスニング試験、9時半から90分間のライティング試験、13時から各々4分程度のオーラル試験がありました。リスニング試験もライティング試験も、最初は簡単な問題から徐々に難しくなってくるという、いつものJICAの試験の特徴通りでした。さまざまな到達度の人を試験するにはこうしないとダメなんでしょう。オーラル試験は絵を見て1分間考えて、2分間話す、という一方通行方式です。順番に部屋に入り、生徒一人に対して2~3人で行われます。
 分からない所はたくさんありましたが、こんな事も言えるようになったんだぁ、とか、こんなにいろいろな文章が分かるようになったんだぁ、と思います。ただ、まだ試験には現在形の動詞しか使われておらず、今後、いろいろ種類のある過去形が使われるようになると、もっと複雑になっていきます。また、語彙の少なさは、いくら文法がわかっても補うことができないので、これからもっと語彙力をつけていかないとダメだと感じました。
 ところで、一般社会から切り離された空間にいるので、あまり考えませんが、世間はゴールデンウィークなんですよね。そんな時にテストや授業、外部講師を呼んだ講座などを日曜日以外は休みなくやっております。いつもこの時期は休日出勤で働いていました。することがないので、休日勤務に組み込んでもらったりしていました。今年は前職場では新人さんへの入れ替わりが大きかったので、休日診療体系はなくなっています。ちょうどいい時に訓練がありました。・・・ではなく、私が辞めたから新人さんが入ってきたのか。

2011年4月30日土曜日

国旗掲揚

 青年海外協力隊の訓練所では日曜日以外、朝の集いが7時からあり、派遣国の国旗掲揚が行われます。今日は、私が派遣されるドミニカ共和国の国旗が掲揚されました。今日はその模様をビデオで紹介したいと思います。
 国旗を掲揚する高さは同じにすることがマナーで、同じ支柱に上下で並べて掲揚することは、上の国が下の国を支配している、という意味になります。また、訓練所では相手国に敬意を払うため、派遣国が最初に掲揚されます。訓練当初は、東日本大震災で犠牲になられた方々への弔意を示すため半旗(一度最上部まで上げた後、少し戻した状態)を掲げていましたが、現在は政府の対応に合わせて動画のように通常通りの掲揚となっています。この下が本日の朝の国旗掲揚の模様です。定点撮影です。
↓↓↓
 国旗を持たせてもらいましたが、身が引き締まりますね。

2011年4月23日土曜日

マラリア

 マラリアには年間3~5億人が感染し、150~270万人が死亡していると推測されています。死亡症例のほとんどがサブサハラの5歳以下の小児ですが、東南アジアや南アジア、南太平洋諸島、中南米でも起こっている感染症です。病原体はウイルスではなく原虫で、蚊により媒介されます。蚊が人に吸血する際に唾液腺からマラリア原虫が体内に侵入するのです。
 血中に入ったマラリア原虫はまず肝細胞内に取り込まれ、そこで分裂・増殖します。ある程度数が増えると肝細胞を破壊し、再び血中に出て次に赤血球に侵入します。そして赤血球内で分裂・増殖し赤血球膜を破壊し、別の赤血球に再び入る、というサイクルを繰り返します。肝細胞内に休眠原虫といって、じっとしているだけの原虫が留まることがありますが、これは再発のリスクファクターとなります。破壊された赤血球は、血管内皮と結合する性質を持ち、これが脳症の原因であるとも言われている。
 初期症状は蚊に刺されてから7~9日後に現れます。発熱、倦怠感、頭痛、関節痛、筋肉痛で、時折、嘔気・嘔吐、下痢、腹痛も呈します。重症化すると脳症、腎症、肺水腫/ARDS、DIC様出血傾向、重症貧血、低血糖などが起こります。
 潜伏期間から考えて渡航後1週間以内に起こる発熱はマラリアではありませんが、マラリア流行地域では1週間以降に発熱があれば直ちに医師のところへ行く必要があります。
 急性期治療は、抗マラリア薬であるクロロキンを使用し、治療が成功すれば休眠原虫の駆除のためにプリマキンを使用します。クロロキンに対して耐性を持っているマラリア原虫もあり、その場合は別の薬剤が使用されます。どの種のマラリア原虫か(人に感染するマラリア原虫には4種類ある)を鑑別することは治療を行うにおいても重要なことのようです。ドミニカ共和国においては耐性を持ったマラリア原虫は確認されていない、とのことですが、多くの地域ではクロロキン耐性が出来上がっているようです。
 ドミニカ共和国に行く際に携行しているとよいものとして、CDCは以下のものを挙げています。

  1、普段から内服している薬
  2、抗マラリア薬
  3、市販の下痢止め薬
  4、ヨウ素剤、携帯式water filter(水の浄化のために)
  5、サングラス、日焼け止め(有害な紫外線から身を守るため)
  6、手指のアルコール消毒剤
  7、蚊に刺されないためのグッズ

 ドミニカ共和国は観光地も含む全域でマラリアのリスク地域なので抗マラリア薬が挙がっています。死亡例を含む副作用の危険から使ってはいけないとCDCが指定している抗マラリア薬も多くの国で販売されているようです。日本から持って行けるものなのか、現地で手に入れるものなのか、また訓練所のスタッフに聞いてみようと思います。

(参考資料)
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k05/k05_04/k05_04.html
http://wwwnc.cdc.gov/travel/destinations/dominican-republic.aspx
http://wwwnc.cdc.gov/travel/yellowbook/2010/chapter-2/malaria.aspx

(世界マラリアの日:2011年4月25日)
http://www.worldmalariaday.org/home_en.cfm
http://www.rollbackmalaria.org/worldmalariaday/

2011年4月19日火曜日

デング熱

 デング熱とは18世紀より報告されているウイルス感染症の一つで、蚊(Aedes)を媒介にして感染します。10~40年のサイクルで、港の近くから大流行する傾向があります。航路を介して持ち込まれた血清型(serotype)の違うウイルスとの交わりで、新たなタイプのデング熱が起こるとされています。第2次世界大戦後は世界の経済発展に伴い人々の移動範囲が広くなり、感染拡大のスピードが速くなっていると言われています。
 上の地図の2本の線の間は、媒介する蚊が1年中、生きることができる地域で、北限が1月に気温10度以上の地域を、南限が7月に10度以上の地域(一番寒い時期が10度以上の地域)を表している(と思います)。そして黄色く示された国がデング熱のリスクがある国です。私がこれから行くドミニカ共和国も含まれていますし、現在流行が始まっているパラグアイももちろん含まれています。
 ウイルスが体内に入るとと多くの人がデング熱を発症します(これを感染した、と言います)。症状は発熱から始まり、頭痛・関節痛、発疹などが起こります。通常は1週間ほどで治癒します。また少数に血漿漏出と出血傾向を示す症例があり、デング出血熱と言われます。年間1億人がデング熱を発症しているのに対して、デング出血熱は25万人と推測されています。
 デング出血熱は、デング熱とは違い、治療しないと死にいたる病気です。血漿漏出による血管内脱水からショックを起こしたり、胸水・腹水による呼吸不全を起こしたりします。
 デング熱の場合はアセトアミノフェンなどの鎮痛解熱剤や輸液程度で治ります。デング熱のウイルスに対する予防接種は現在はなく、蚊にさされないように注意することしか予防策はありません。蚊にはDay-biting mosquitoesとnight-biting mosquitoesがあり、デング熱は前者です。ちなみにマラリアは後者により感染します。まったく蚊に刺されないように生活することは不可能ですので、できるだけ蚊に刺されないように注意する生活をする必要があります。
 例えば、(蚊だけでなく、他の虫に関しても以下に記す)

 1、森やジャングルなど虫に刺されるリスクの高い場所に行かない、留まらない。
 2、可能な限り屋内、特にエアコンの効いた閉じられた空間にいる。
 3、ドアや窓には網戸をつける。
 4、タイトな服は着ないで、ゆったりとしたサイズの服を着て、服を介して刺されないようにする。
 5、靴下の中にズボンを入れて、虫が這いあがってくるのを防ぐ。
 6、衣類にペルメスリン(殺虫作用のある薬剤)をスプレーしておく。(皮膚には直接塗れない)
 7、虫よけスプレーを塗る
 8、蚊取り線香を使う
 9、就寝時には蚊帳を使う

 それでももし刺されたら、

 1、刺された部位を清潔にし、絆創膏などでは覆わない。
 2、かかないようにする。
 3、抗ヒスタミン薬の入った軟膏を塗ることで、腫れは軽減する。
 4、抗ヒスタミン錠の内服で、痒みを軽減できる。
 5、感染が疑われたら医師へ相談し、抗生物質、抗ウイルス薬を服用する。
 
 以上のことは以下を参考にしています。もっと詳しくお知りになりたい人は参照してください。

http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k04/k04_50/k04_50.html
http://www.nathnac.org/travel/factsheets/denguefever.htm
http://www.nathnac.org/travel/factsheets/pdfs/Dengue2007.pdf.pdf
http://www.nathnac.org/travel/misc/documents/InsectBiteAvoidance_trav.pdf
http://www.nathnac.org/ds/c_pages/country_page_do.htm

 今日、部屋に蚊が入ってきました。何か所か刺されました。笑
 あっ、それとウイルスが入ってきても感染を成立させないような元気で丈夫な体でいることも大切だと思います。

2011年4月17日日曜日

スペイン語授業

 駒ヶ根に来て12日目になりました。これまで語学の授業や、さまざまな講座があり、非常に充実しています。地域の人々や、JICA・JOCAのスタッフ、語学の先生方、建物管理の方々、調理場の方々、清掃員の方々、そして周りの訓練生。非常に多くの人に支えられ、この訓練が進んでいることを非常に有り難く思います。
 語学のクラスは、私の場合、生徒6人に対して先生1人で行われており、高校時代のEnglish Intensive Courseのスペイン語版のようです。文法や単語などの知識や、会話などの実践的トレーニングが集中的に行われます。自己紹介程度なら何とかできるようになってきました。先生がスペイン語には3つ難しい所がある、と言っていました。
 ①一つは英語のbe動詞にあたるser動詞とester動詞の使い分けです。最初の1週間はこればかり繰り返し練習していた印象です。それでもまだ使い分けがうまくできない時があるので、今後の課題でもあります。
 ②二つ目は、点過去と線過去の違い、だそうです。スペイン語の過去形には4種類あり、日本人には大きな壁になるようです。これはまだ先に習うことですので、今はよく分かりません。
 ③そして最後は、接続法、とのこと。これもまだ先の話なのですが、気合入れて取り組まないといけません。
 今、授業では、ser動詞とester動詞から先に進み、他の動詞が出てきました。出てきてさっそく、動詞の活用の複雑さに頭がオーバーヒートです。昨日は授業が終わった後、スペイン語仲間との懇親会があったので復習ができていませんが、今から頑張ろう、という次第です。
 ところで、こちらでは桜がぼつぼつと咲き始めました。もうすぐ花見シーズンですね。

2011年4月10日日曜日

駒ヶ根市

 長野県駒ヶ根市には、JICAボランティア(青年海外協力隊:JOCV、シニアボランティア)の訓練施設があります。1974年、つまりJOCV事業が始まって14年後に開設されました。その6年前には東京に広尾訓練所が開設されており、当時はこの2つの訓練所が使用されていたそうです(現在は広尾訓練所はなくなり、福島に二本松訓練所ができています)。1983年、駒ヶ根市は「駒ヶ根協力隊を育てる会」というものを駒ヶ根青年会議所が中心になって発足させました。市民がこのJICAボランティア事業に協力的に支援してくださっているのです。その気持ちの表れだと思うのが、駒ヶ根訓練所に続く道の名前です。「協力隊通り」と名付けてくださっています。

協力隊通りに咲く花々
  そんな駒ヶ根市のキャッチフレーズは「アルプスがふたつ映えるまち」ということで、東に南アルプス、西に中央アルプスが見えます。四季折々に山が衣替えしたり、花が咲き誇ったりするとても綺麗なまちです。もうすぐ桜の時期になります。花見客も多くなるそうですし、山開きがされると山に人の渋滞ができるそうです。
 また養命酒の工場もこの駒ヶ根にあります。養命酒は駒ヶ根でしか製造していないそうです。「ハーブの恵み」という新しいお酒も発売されたそうで、ぜひ飲んでみたいと思います。市民の健康や福祉、教育に力を入れている駒ヶ根市にぴったりの健康を提供する「養命酒製造株式会社」。ぜひ訪れてみたいものです。
 しかし、勉強が最優先であることは言うまでもなく。今晩は、今日まとめた単語帳の単語を覚えていきます。

2011年4月6日水曜日

健康保険証

 どうやら、JOCVに関する事業に関して、ブログなどで情報発信するには、事前に届出が必要だそうで、後日それについて用紙が渡されるようです。それまではあまり研修について書かないでおこうと思います。
 今日は訓練所に着いてから区役所と何度も電話でやり取りをしました。概要は以下の通り・・・
 退職にあたり、国民健康保険への切り替えが必要で、区役所に足を何度か運んでいます。最初の、3月初旬に手続きに行ったときは「これとこれとこの書類が揃ったらまた来てください」と言われ、さらに「7月から海外に行くのならまずは海外転出届を出してください」とも言われました。なのでその日は海外転出届だけをして帰宅しました。
 その後、書類が揃ったので3月末に区役所に行ったところ、「4月になったら手続きができるから、4月に入ってから来てください」と言われました。無駄足でした。何もできず帰宅しました。
 そして4月4日、もう一度区役所に行くとやっと手続きができました。そして昨日、交付通知書が届き、「この交付通知書と下記のものを持って、区役所に来てください」といった書類が入っていました。さらに、付箋で手書きで「お伝えしたいことがあるので来庁前にお電話ください」と貼ってありました。それを見たのは午後6時。
 今日、長野から区役所に電話すると、「海外転出届が出されているから、保険証を発行できない」と。ちょっと怒りそうになりましたが、落ち着いてよく話を聞くと、「来庁していただいたら、まずは海外から日本の方へ住民票を戻す手続きをして、その後、保険証をお渡しします」とのこと。とにかく保険証がもらえることを知りホッと一息。母親に行ってもらうことになりました。
 疑問がいくつか残る・・・。なぜ海外転出届を出させたのか? なぜ3月末に無意味に区役所に行くはめになったのか?
 これからJOCVに参加される方へ! 海外転出届は派遣前訓練が終わってからじゃないと、いろいろ不都合が起こりますよ!!

2011年4月5日火曜日

派遣前訓練前夜

 必要なものを買い揃えて荷造りしていると、最初はスーツケースとバックパックだけで十分足りると思っていたのに、入りきらなくなってきました。日曜日にりんくうプレミアムアウトレットに行ってColumbiaのバックパックを購入しました。旅好きだと思われる店員のにーちゃんに詳しく使い方を教わりました。そのバックパックもいっぱいになってきました。しかもコンピューターやカメラなど電子機器を入れていますので非常に重たくなっています。明日の移動は頑張らなくてはいけません。
 語学の勉強は派遣前訓練が近くなればなる程、できなくなってきました。もともと欠員一人で仕事していた所に、突然の退職、そして産休に入るスタッフがいて欠員3人で、大変な年度末を迎えることになったからです。有給は消化しきれませんでしたが、もともと遊ぶお金もなかったので働いていてよかったと思います。3月いっぱいで形式上は退職でしたが、昨日まで引き継ぎで職場に行っていました。全患者きちんと引き継ぎができたし、新入職のPT・OTにも伝えられる範囲で新人教育できました。
 歯医者にも昨日まで通っていました。派遣前訓練が終わって大阪に戻ったらまた行かなければいけません。大丈夫だろうか、私の歯? 派遣までに治るか心配です・・・
 派遣前訓練までに手続きしておくべき国民健康保険への切り替えも、実はまだできていません。今日やっと交付通知書が来て、明日以降、区役所に行けば保険証がもらえるのですが、明日以降は長野ですので行けません。(母親に代理で行ってもらうことになりました)
 もっと時間に余裕があれば問題なくできたのでしょうが、なんともバタバタした訓練開始前夜になりました。後は明日、寝坊せずに朝5時に起きることです。新幹線や高速バスなどを乗り継いで12時に駒ヶ根に到着する予定です。
 JOCVのOGさんが派遣前訓練は楽しい、と言っていました。自分が勉強したい分野について勉強するわけですし、語学の勉強も好きですから、きっと有意義な時間を過ごせると思います。学生時代に「こういう勉強の仕方をしていればもっと身になっていたのになぁ」という部分がありますので、それを活かしてレベルアップを目指していこうと思います。

2011年4月3日日曜日

スーツケース選び

 いよいよ3日後に迫った派遣前訓練ですが、昨日やっとスーツケースを買いました。派遣前訓練の準備スタートです。スーツケースには安い物から非常に高い物まであり、性能やアフターサービスがみな違います。私がスーツケースを選んだポイントは、①大容量であること、②キャスター部分の耐久性、③メーカー保障、の3点でした。
 ①大容量であることは必須でした。ドミニカ共和国で2年間過ごすのに、飛行機に預ける荷物の重量制限など気にしていられません。重さの超過料金が取られようが必要なものは持って行きたいですから。容量は私が見た中では116リットルが最大だったと思います。有名メーカー別で最大容量を示すと次の通りです。TITAN:116リットル、ProtecA:108リットル、RIMOWA:104リットル
 ②また、キャスター部分が破損すると大容量ゆえに、持ち運びが困難になります。安価なキャリーバッグを旅行の度に壊している人を知っています。転がせないので、持ち上げて移動していました。非常に大変そうでした。キャスターの耐久性テストがしっかり行われていることをアピールしているのはProtecAのスーツケースでした。また、TITANのスーツケースの新商品には、ショック吸収の機能を備えたキャスターで、しかも四隅にあるキャスターそれぞれが2輪構造になっています。ショップ店員さん曰く「1つ壊れても、もう1つキャスターが残っているから転がせる」とのこと。
 ③有名なブランド品なら、メーカー保障が付きます。ドイツ製のTITANと、RIMOWAがそれぞれ5年保障を付けています(全商品ではないようですが)。値段は張りますが、安いものを買って、何度も買い替えるよりはいいと思います。
 以上の観点から選んだ商品は右の写真のTITAN 5th Elementのホワイトです。光を当てると真珠のように色が変わります。5万円弱でした。容量は111リットルで、小物を入れるポーチや、衣装ケース、シューズバッグなども付属で付いています。
 今朝、さっそく荷造りを開始しました。衣類はほぼつめ終わったので、後は運動用シューズや、体育館シューズ、雨合羽などを買って詰めて、最後に隙間に勉強道具や本、小物類を入れていけば終了です。
 今日は、靴、雨合羽、大きめのリュックを買いに行きます。

2011年4月2日土曜日

ようこそ

 3月31日付けで4年間勤めた病院を退職しました。そして4月1日より新しいスタッフが入ってきました。私は引継ぎや、電子カルテ操作教育で4月5日まで、これまで通り出勤予定です。なんだか退職したという実感があまりありません。今日は、これまでの4年間を振り返ってみます。
 働き始めて1年目は、それはもう自信過剰になっていました。免許をもらったことで、「これからは自分でやりたいように仕事ができる」なんて思っていました。実習生時代は、自分の技術のなさや、知識のなさを認めようとせず、指導者に迷惑をかけていた、ということにもこの時期まだ気づいていません。「自分はできるんだ」ということを国家試験合格という1点だけを根拠に思い込んでいました。
 それは2年目になってもしばらく続きました。この年に入職してきたPT(経験は私より2年長い)に対しても、「そこはそうじゃないでしょ」とか「それじゃ患者さんが歩けなくしているようなものでしょ」なんて噛み付いていました。他の先輩に対しても、治療方針や考え方の違いで衝突することが増えてきました。
 3年目に入る頃、少しずつ組織で仕事をしているという自覚ができてきました。考え方の違いで衝突することはなくなってきて、考え方の共有ができるようになってきました。一方的に意見を言うことから、相手の意見を聞くようになってきました。そうした折にJOCVに応募しようという計画を行動に起こしました。3年目の12月頃、働き方や、今後の勉強の仕方などについてアドバイスを頂いていた先輩に「1年後、『lily君は変わったね』と言われるようになっているかどうか」と言われました。
 4年目に入り、JOCVとしてドミニカ共和国に行くことが決まり、様々な出会いがありました。それによっても、人と意見を共有する経験をたくさん積み、自分の未熟さや、世界の広さを知ることができました。
 そして、理学療法士として5年目になった今、世界中の障害を持った人々の生活の質の改善のために、自分の持つ技術や知識を使って貢献するとともに、自分自身も技術・知識、そして人間力を磨いていくことを、今後のライフワークにしたいと思います。
 「長かったようで短かったと思っていた4年間」ですが、こうやって振り返ると、書きつくせないくらい様々なことがあって「長い4年間」に感じました。それだけ内容が濃い4年間だったんだと思います。これからの病院の未来は新しく入ってきたスタッフに託し、豊かな知識を持ったPTが育っていってほしいと思います。そして、終身雇用にこだわらず、広く世界に巣立っていってほしいと願います。

2011年3月21日月曜日

JOCV派遣は予定通りの見通し

 派遣前訓練というものが、青年海外協力隊(以下JOCV)として派遣予定の人には課せられることになります。長野県にあるJICA駒ヶ根と、福島県にあるJICA二本松の2ヶ所で例年行われています。私は平成23年度1次隊の候補生としてJICA駒ヶ根に4月6日から6月9日まで滞在することになります。
 実は、今回のこの大地震による災害で、訓練は延期になるものだと思っていました。福島県のJICA二本松は被災者の避難所になっていますし、長野県でも地震がありました。3月14日にJICAが「予定通り実施する予定にしている」との発表がありましたが、あくまでも予定でした。その後、18日に「JICA二本松で訓練予定だった人は、JICA駒ヶ根とJICA大阪に分かれて訓練を実施する」との発表があり、訓練が予定通り実施されそうな見通しになってきました。
 地震後、私の訓練に向けての準備は一時中断され、地震に関する情報収集、PT協会やOT協会の動き、自分ができる被災者への援助、について常に思案していました。4月から無職で、さらに訓練が延期となれば、被災地で援助活動が何かできないか、と考えていたからです。
 しかし、予定通り訓練は実施され、6月末にはドミニカ共和国へ派遣されるようです。今、日本がこのように混乱している中、国のお金で海外に行ってもよいのか? 自問自答してみました。
有事は地球規模で起きている
 海外から多くの救助隊や義援金、援助物資が届けられています。逆に、ニュージーランドの地震、スリランカの洪水、カリブ諸国でのハリケーン、チリでの地震などなど・・・これらの有事の際に、日本は様々な形で援助をしてきました。同じ地球に住む者として、このような援助は、隣人が困っているときのように行われるべきものだと思います。困っている程度に関係なくです。JOCVの活動もなにも特別なことではなく、派遣国で困っている人に手を差し伸べているだけです。
 「困ったときはお互い様」で、人と人が繋がり、国と国とをも繋げていく。これが国際協力だと思います。この有事のときでも、JOCVの派遣は問題ではないと考えます。
 もう一つの問題は、JOCV派遣には税金が使われていることです。国民だけでなく、海外からも巨額の義援金をもらいながらも、国のお金の一部はJOCV派遣に使われます。訓練所での食事・電気・ガス・水道もそうです。冷たい目でJOCVを見る人もいるかもしれません。しかし、この件に関しても、事態の深刻さを議論の対象に挙げないなら、問題ないと思います。専門の知識・技術を持ったJOCVが困った人のところへ助けに行くことは、海外の人たちが日本に援助してくれていることと同じように大切なことだと思います。
 JICAの「途上国支援がいつかは我々の国益になる」という考え方は、私はあまり好きではありませんが、つまり「持ちつ持たれつ」、「ギブ&テイク」という意味なんだと思うようにしています。国益のためではなく、地球市民であるために、私は生きているんですから。

2011年3月19日土曜日

東日本巨大地震

 この度、東日本で起きている大地震で被害に遭われた方々には、心よりお見舞い、ご冥福をお祈りいたします。1日も早い復興を目指すべく、私たち国民ができることを、みなが真剣に考えなければならない時だと思います。
 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とした巨大地震が発生し、現在も余震や二次災害などで被害は広がっています。地震発生時、私は仕事中で、患者さんと一緒に歩いていました。「地震だ」という声が聞こえましたが、歩いている最中で揺れには最初は気づきませんでした。揺れよりも先に、天井や壁などから「ミシミシ」と軋む音に気がつきました。隠れるところがなかったので、近くにあったクリップボードA3サイズを患者さんの頭の上に乗せましたが、事なきを得ました。
 地震後、時間とともに被害状況が明らかになってきて、その被害規模の大きさに日々驚かされています。入院中の患者さんは、地震のニュースしか流れないテレビを毎日、ずっと見ており、精神面で不調をきたしている方もいます。被災していない方が、被災者に対して何かしなければという責任感、しかし何もできないという無力感で板ばさみになり、それに追い討ちをかけるように被害の状況が繰り返しテレビで流れている今。気分が落ち着かない、胸がドキドキして治まらない、地震の恐怖が頭から離れない、そのようにお感じの方はテレビを一度消しましょう。
 災害発生初期には、病院は外傷患者でいっぱいになります。外科系の医師、看護師が大忙しとなります。また、メンタル面でのサポートも初期から必要になります。精神科医師や心理士、臨床心理士、また場合によっては牧師さんやお坊さんも活躍します。避難所や仮設テントなどで生活する人に対しては、生活するために必要な設備にアクセスできるかが重要です。例えばトイレに誰でも行くことができるか、という問題があります。仮設トイレに洋式トイレがなければ足の不自由な方は使用できないことがあります。また洋式であっても仮設トイレは2段ほど段を上がらなければならない場合が多いので、それが障壁になってトイレに行けない人もでてきます。また、そもそもトイレまでが遠い、トイレまでの道が整備されていない、などでトイレにアクセスできない人が現れると問題です。
 トイレだけではなく、配給所へ行けるかどうか、体調の異変をだれかに訴えることができるか、など様々な問題が生活をする上ででてきます。このような生活を障害する因子を取り除くために、環境を改善したり、ルールを作ったり、代替手段を提案したり指導したりすることが、災害発生初期からの理学療法士や作業療法士の役割だと思います。
 復興が進んでくれば、家庭復帰や職場復帰のための支援が理学療法士・作業療法士の役割となると思います。
 しかし、私は今大阪にいます。ここで今、私ができることは何なのか。募金なのか?ボランティアなのか?ブログで情報を発信することなのか? ただ、間違いないことは人に迷惑をかけないことだと思います。買いだめの問題。節電の問題。・・・
 この動画を見てください。
 日本人なら大丈夫だ!そう思いました。

2011年2月22日火曜日

ミャンマー

 先日、ミャンマーの理学療法士(PT)さん5人と交流する機会がありました。彼らは、「ミャンマー理学療法士協会」の設立を目指している選ばれし者です。1か月ほど日本に滞在し、講義や見学を通して、PTに必要な概念や評価法、また診療録の書き方などを習ってきたそうです。その総まとめの日にお邪魔しました。今日は、その時に得たミャンマーの現地の人の声による貴重な情報を紹介したいと思います。
 <ミャンマーの理学療法士の育成について>
 4年生の大学で勉強することが必須だそうです。理学療法を勉強するには国立の大学しかないそうで、年に1度ある全国統一試験での成績によって理学療法学部に入れるかどうかが決まります。成績順で「あなたはこの学部に入れます」と割り振られるからです。一番は医学部、その次は薬学部、そしてその次あたりに理学療法学部があるそうです。看護学部は理学療法学部よりやや下とのこと。海外でPTの免許を取得した人は聞いたことがないそうです。もし、そのような人がいれば、おそらくミャンマーには戻って来ないだろう、と言っていました。
 <ミャンマーの理学療法事情>
 日本と同じで、ミャンマーでもPTが対象とする症状で一番多いものは「痛み」だそうです。それに対して行われていることは物理療法で、徒手治療はやっていないとのことです。物理療法を行っていき、痛みが軽減してきたころ、関節可動域運動などの運動療法が行われると言っていました。徒手治療はほとんど行っていないのは習っていないからなのか、関節運動学的アプローチarthrokinematic aproach(AKA)という言葉は初耳だったそうです。日本で開発されたAKAの一つにHakata methodという物があることを紹介しておきました。AKAについてはまだ知らないミャンマーのPTですが、Physical Medicine and Rehabilitationという言葉を知っていました。日本では後者(Rehabilitation)のみが輸入されてきましたので、Physical Medicineも知っているミャンマーのPTの方が未来は明るいような気がしました。
 <ミャンマーの家族事情>
 ミャンマーでは大家族が多いそうです。一人暮らしは非常に稀で、退院に際しては介助者が必ずいます。誰かが病気になれば、遠方からでも親戚や知人が大勢お見舞いにやってくるそうです。笑い話で、「病人が出れば、その家はパーティー騒ぎだ」と言っていました。病院でパーティー騒ぎされないように、「お見舞いは1度に1人」という立て看板が置かれているそうです。お見舞いに行かないと、その後の関係が悪くなるそうで、どうしても行けない場合は誰かにお見舞いの品を託して後日訪れるのだそうです。だから、出勤前に「これを○○氏のところへ届けてくれないか」と頼まれることは日常茶飯事だと言っていました。
 <ミャンマーの障害児事情>
 子供が障害を受けると親が付きっ切りで介護します。学校へ行ける場合は、親も同行して学校生活を援助するのだそうです。しかし、車いす生活になった子供の場合、道路が非常に悪いので通学が困難になります。さらに、車いすになってまで学校に行かなくてもいい、という考えが親にも子供にも現れることから、通学しなくなるそうです。松葉杖で歩ける子供なら通学している例もある、とのことでした。
 たった1日だけの交流でしたが、快く歓迎してくれたミャンマーの理学療法士の方々に感謝でした。また、非常に熱心に取り組まれている姿を見て、日本も負けていられないぞ、と思いました。ミャンマーには青年海外協力隊が派遣されていないそうです。いつか、ミャンマーも訪れたいと思います。

2011年2月16日水曜日

幸福感

 去年の4月に受講したイデアス実践講座の講義資料の一つを、先日引っ張り出して読んでいました。資料のタイトルは『幸福研究と開発経済学』です。
 幸福の要素とは、物的な豊かさ・自尊と尊厳・生活保障・平和・身体の安全など、と『Voices of the Poor』という本に書かれているそうです。人間生活を評価する指標に、「お金持ちか、お金がないか」と「幸福感があるか、幸福感がないか」の2つの視点を持って考えた場合、従来はお金持ちであればあるほど、幸福感は上がる、と思われていました。しかし、実際にはそうではない、という考え方が経済学に取り入れられるように近年はなってきたそうです。ブータンは「GNPではなくGNHで世界一を目指す」と言った、という話も聞きました。GNHとは、gross national happiness:国民総幸福の略です。
 例として適当かどうかを論点としないならば、私の例を一つ挙げてみたいと思います。私が卒業した専門学校は歴史が古いため、建物の老朽化や、設備・備品の故障・破損・紛失など、決して恵まれた環境ではありませんでした。ベッドも何度壊れたことか。最先端の設備を備えた新しい大学などと比べるとハード面では到底敵いません。しかし、私は不幸だったか、と言うとそうではありません。むしろ幸せでした。それは、自分の希望を叶えてくれる教育を受けることができたからです。アマルティア・センの言う「貧困」と全く逆です。私の潜在能力を生かして、さらに伸ばしてくれる教育が受けれたことが、幸福感を上げる大きな因子になりました。
 お金やモノがあれば良い、というわけではないのです。
 なぜ、こんな事を書いたかと言うと、先日、『理学療法士の国際協力』というタイトルで、JOCVの大阪府OB・OG会で30分、お話させて頂いたことがきっかけです。プレゼンテーション後、懇親会で「理学療法士の仕事である、障害を持った人が社会に戻る手助けをする、というのはその人の幸福感を上げることができる素晴らしい仕事だ」と言ってもらいました。障害者が稼いだお金が例え微々たるものでも、社会の輪に入ること自体に意義がある、と教えていただきました。私は、障害者が社会参加することが、その国や地域に良い経済影響を与えることができれば良いなぁ、と考えていました。しかし、国や地域に影響を与える以前に、一人ひとりの生活に影響を与える、ということを忘れていました。その影響とは、経済的な影響だけでなく、幸福感へも影響を与えるんだ、ということを気づかせてもらいました。
 人々の幸福感を上げることが、私の幸福感にも繋がると思います。もっと広い視野を持たないといけません。

2011年2月11日金曜日

ヒロシマ

 広島は水の都として発展・近代化された都市で、学都でもあり軍都でもありました。今でも珍しいT字型の橋、相生橋が作られ、戦前から電車が走っていました。また、陸軍の第5師団が置かれ、日清戦争や日露戦争など、戦争のたびに軍用地は拡大されていきました。日清戦争の際には、明治天皇と大本営headquarterが広島にやってきて、当時の広島は日本の臨時首都のような役割を担っていたそうです。
明治時代から軍事教練が始まり、幼稚園から戦うことを教えられていました。幼稚園児にも教えているくらいですので、当時は女性にも軍事教育がなされていました。昭和に入ると中学校以上の学校に現役の将校が配属されて学生に訓練をさせていたそうです。昭和14年にはこの軍事教練は男子の義務となりました。宇品港と呼ばれる港から多くの若者が出兵していきます。
 極秘の原爆製造計画「マンハッタン計画Manhattan Project」が1942年8月に始動し、1944年9月に日本に投下することが決まりました。いくつかターゲットとなった都市があり、その中にもちろん広島も含まれていました。ターゲット都市に対して、1945年5月、空襲禁止の命が出ました。理由は、原子爆弾の威力を正確に知るため、および、投下目標点を目視できるよう空気を汚さないため、だったそうです。そして、8月6日午前8時15分、無警告で落とされた原子爆弾が地上600mの上空で爆発しました。投下目標点は特徴的な形をした相生橋でした。
 直後から赤十字国際委員会のジュノー医師などが救護活動を開始しました。彼は当時不足していた医薬品などをGHQから大量に取り寄せ、救護活動に貢献した医師の一人です。1947年にはアメリカがABCC:Atomic Bomb Casualty Commissionを立ち上げ、アメリカ人医師が診察を行い始めました。しかし、ABCCの医師は「診察はするが治療はしない」と強い批判を受けました。ABCCからの医師の興味は、原爆が人体に与える影響であり、治療するために来日していたのではなかったのです。
 原爆の威力を知るために空襲をしない、や、人体への影響を知るための診察、など人権を無視した酷い行動です。最近、この原爆によって傷ついた人を、イギリスのテレビ番組が笑い話に用いた、というニュースを目にしました。日本に原爆を落とすことを決めたのはアメリカとイギリスです。そのイギリスが今もこんな意識では、核は絶対になくならないでしょう・・・。

2011年2月3日木曜日

ナガサキ

 1月31日~2月2日まで、2泊3日でナガサキ・ヒロシマを巡ってきました。目的は、原子爆弾が対人に使われた世界唯一の国である日本について詳しく理解することです。原爆が落とされた順番とは逆ですが、長崎から行きましたので、長崎で学んだことから先に書きたいと思います。
 飛行機で長崎に行き、昼食に佐世保バーガーを食べた後、長崎原爆資料館に13時頃到着しました。予定より遅く到着しました。理由は、めったにないという積雪によるバスの運休です。地元の人いわく、全く雪を見ない年もある、というのに、私が行った日に限って雪が積もっていました。
 さっそく入館料を払い、ノートを取り出し、最初のパネルからじっくり見て回りました。ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、最初から最後まで丁寧に説明してくれました。これには感謝感激でした。閉館までみっちり勉強できました。
 写真でしか見たことがなかった原子爆弾「ファットマン」の実寸大の模型を見て、最初は「意外に大きいなぁ」と思いました。(原爆の威力、恐怖についてあまりにも理解が乏しかった証拠だと思います。)しかし、被害について詳しく知っていくと、「これっぽっちの爆弾で・・・」と感じてきました。ひとつの爆弾が、長崎の人口の半数をも死傷させたと思うと・・・ 一瞬で全てのものを吹き飛ばしたかと思うと・・・ 胸がつまる思いでした。
 その原爆に、皮肉にも日本人が開発した「八木アンテナ」が使われていた、と知るとなんだが切なくもなりました。地上から500mの上空で爆発させるための高度センサーだったそうです。写真は、爆心地から上空を見上げたものです。この上空で八木アンテナが反応して爆破のスイッチが作動したのです。
 近くに長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)があり、ここも被害に遭いました。しかし動ける医師、看護婦は直後から懸命に救護活動にあたったそうです。しかし、次から次へと運び込まれる患者に対して、限りある物資。消毒液やガーゼ、包帯はすぐに底をつき、処置も受けずに帰っていく人々も多くいたそうです。
 救護活動にあたっていた放射線科(当時は物理的診療科と言われていた)の医師、長井隆は原爆投下前から、仕事で大量の放射線を浴びており、慢性骨髄性白血病を発症していました。それでも救護隊として第一線で活躍し、その時のことを多くの著書(17冊)に書き記しています。私は彼に関する資料館へ行き、彼に関する本も購入しました。(この旅でたくさんの本を買いました。)長崎県の第1号名誉市民でもある長井医師のもとに、ヘレンケラーも訪問され手紙を残していったそうです。
 原爆資料館、長井隆資料館、平和公園を見て周り、悲惨な戦争の様子を目の当たりにしました。暗い気持ちになりました。そこで、通常の観光もしてきました。稲佐山の頂上からの夜景や、坂本竜馬の亀山社中跡、長崎港などをオリンパスペン片手に回りました。近々、フォトパス(左コラム参照)にアップしようと思います。