理学療法士→青年海外協力隊→日本で臨床をしながら緊急援助について学ぶ(現在)→大学院?→国際協力をライフワークに
2011年3月11日より発生しました東日本大震災において、犠牲になられた方々に心よりご冥福をお祈り申し上げます。 また被災された方々に対しましては、お見舞い申し上げるとともに、一日でも早くの復興を応援・支援させていただきます。
2016年4月16日より発生しております熊本地震において、亡くなられた方に心からご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆さまにお見舞い申し上げます。

<祝>当ブログの読者Y.Kさんが青年海外協力隊(24-1 モンゴル)に合格した、という非常に嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>当ブログの読者で青年海外協力隊を目指すMIDORIさんが理学療法士国家試験に合格した、というおめでたい知らせを受けました。もう同じ臨床家です。お互い頑張りましょう。
<祝>当ブログの読者KENJIさんが青年海外協力隊(25-2 タイ)に合格した、というまたまた嬉しい知らせを受けました。おめでとうございます。
<祝>募集説明会で体験談をお話させて頂いた方2名も青年海外協力隊(モザンビーク、ベトナム)に合格したと再会時に報告がありました。おめでとうございます。
<祝>2013年JOCVリハネットセミナーで私の活動報告を聞いてくださったA.Kさんも青年海外協力隊に合格されました。おめでとうございます。
<祝>国際緊急援助隊に当ブログを見て興味を持って頂いたOTさん、青年海外協力隊説明会でお会いしていたOTさん、フェイスブックで私を見つけて質問して頂いたPTさんが仲間入りしました。みなさん青年海外協力隊経験者でした。

青年海外協力隊  体験談&説明会
  *当ブログの作者(ドミニカ共和国、理学療法士)は今回の春募集では体験談を話に行くことができませんが、興味をお持ちの方はぜひお越しください。私に質問がある場合は、関連する記事のコメント欄に質問いただければ、回答いたします。

国際緊急援助隊(JDR)医療チームへの参加に関心のある方へ
  *JDR医療チームはWHO EMT InitiativeのType2認証を受けており、リハビリテーションの提供が求められるチームとなっています。理学療法士・作業療法士で関心のある方、仲間が増えるとうれしく思います。
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2016年6月6日月曜日

熊本地震 海外NGOでのOTの活動

緊急援助においては、多くの日本の団体が様々な形で援助を行っていますが、それに加えて外国の団体も熊本に来て援助をして頂いています。今回は、海外医療系NGOに所属し活動した作業療法士(OT)の体験談を紹介します。このOTさんは、私の友人で、私のよき理解者でもあります。
今回所属した団体はアメリカのNGOで、医療系の人道支援・被災地復興支援を世界各地で行っています。この団体からプログラムオフィサー、公衆衛生の専門家、心理士、ITの専門家が来日しており、その他は現地雇用をしています。現地雇用がこの団体のチームの8割ほどを占めます。海外NGO故に通訳も現地雇用しています。
事務チーム、ロジスティックス・調達チーム、医療チームを作って活動しています。またアセスメントチームを多職種で作り、支援が必要な避難所を見つけます。実際、主に支援に入った避難所は2ヶ所だった、とのことです。
OTとしてアセスメントチームに入り、避難所の評価・ニーズ発掘に関わったり、各種情報共有会議に出たり、本業である作業療法を行ったり、活動範囲は多岐に渡りました。どの活動も重要なものではありましたが、やはりOTとして専門を生かした活動ができたときには、達成感や充実感を得ることができた、とのことです。
実際に行った作業療法の例の一つは、集団体操です。機能レベルを以前より上げるというのは、災害医療においては(できるに越したことはないですが)優先順位は低く、この集団体操では被災前の活動レベルに戻す、ということを目標にしていました。避難所の限られたスペースで、不特定多数の方が生活している場所で、活発に動き回る、ということはなかなかできません。散歩や軽い運動などを自ら行うように促しても、「こんなにみんなが大変な時に、散歩なんてできない。」「周りの目線が気になる」などの理由で、活動量はどうしても減少してしまいます。そのため、専門職が集団体操の指揮をとり、それがきっかけ・理由となって、運動に参加してもらうように誘導しました。
このときだけは心配ごとを忘れてもらおう、と体操だけでなく、レクリエーションも実施しました。レクリエーションを通じて、避難者同士の交流もなされ、避難所内での人間関係の改善にも繋がりました。このような活動は、1回完結ではなく、繰り返し行うことで、前述のような良い結果をより生み出せる、とのことでした。
また、この団体の活動の特徴として、現地雇用メンバーに、サイコロジカルファーストエイド(Psychological First Aid、以下PFA)を推奨していました。WHOなどが作成したPFAのガイドラインには「被災者の尊厳、文化、能力を尊重したやり方で支援するための枠組みを示す・・・どのような言葉をかけ、どのような行動を取れば、最も支えとなるのかを考えるための資料」と書かれています。(WHOのガイドラインはこちらから各国言語でダウンロードできます→http://www.who.int/mental_health/publications/guide_field_workers/en/) アメリカのNational Center for PTSDなどが作成したPFAのガイドラインもあり、この日本語版が兵庫県こころのケアセンターのホームページからダウンロードできます。(http://www.j-hits.org/psychological/)
この熊本での活動で感じたのは、情報収集の大切さ、情報共有の難しさ、チームとしての協業性の重要性、などだったそうです。また現地で支援をしている地元の方も、支援を受けている人と同様に被災者であることも忘れてはいけない、と強く感じた場面もあったそうです。
以上のように、外国の団体ではありますが、現地雇用の人材を生かし、熊本で多くの支援をしていただきました。このような外国のNGOが日本に来る事ができるのは、そのNGOの活動を支える支援者がいるからであり、その遥か遠くの見えない支援者様たちにも感謝したいと思います。

2016年5月8日日曜日

JRAT大阪 熊本地震派遣 報告会

昨日、大阪府理学療法士会が、現在も派遣中のJRAT大阪の活動についての報告会を開催しました。そもそもJRATとは、どういうものなのか、私自身、よく分かっていなかったのですが、報告会に参加し、様々な情報を得ることができました。
 JRATの始まりは2011/3/11の東日本大震災でした。発災後2ヶ月が経とうとする5/5に10団体が結束して作ったリハチームが現地の避難所に入りました。しかし、入ることができたのはたった3つの避難所でした。それは、あまりに派遣した時期が遅かったからです。発災後、すぐに行かなければ、ボランティアは必要なところに配備され、後から来た人には「もう間に合っています」ということになります。その教訓があり12団体が協力し、JRAT(大規模災害リハビリテーション支援関連団体協議会)を作り、平時からの備え(研修・啓発等)を行っています。
 財源は豊富にあるわけではなく、今回の熊本地震における派遣は、JMAT(医師会の災害医療チーム)の傘下に入り、災害救助法がカバーできる範囲での費用弁済される予定だそうです。しかし活動全てが自腹になってしまう可能性もある、とのことでした。
 JRATが全国レベルでの災害リハビリコーディネーター養成研修会を実施し、その後、各都道府県で地域JRATが発足しています。JRAT大阪は比較的活発に早い段階から活動をしているという話でした。
 今回の熊本地震の発災翌日4/15には東京にJRAT災害対策本部が立ち上がり、熊本にも現地のJRAT災害対策本部が立ち上がりました。発災後9日目には医師を含むチームが現地に入り、活動を開始しました。東日本大震災の時と比較すると初動がかなり早くなっています。
 リハ関係職種が災害医療チームに入る利点として、複数の報告者の発表を聞いてまとめてみると、次のようになります。
  1、リハトリアージができる
  2、廃用予防、生活不活発病の予防ができる
  3、ICFを用いた考え方ができる
  4、ADLに関しての知識が豊富
  5、環境設定が得意
  6、他職種との連携が得意
 リハトリアージとはリハ的な関わりの必要度に応じて被災者を選別することで、JRATのマニュアル(無料ダウンロード可→http://www.jrat.jp/images/PDF/manual_dsrt.pdf)にも記載されています。また被災者の疾患や生活環境によっては廃用症候群に至る可能性もあり、そうならないためのICFの枠組みでの思考が重要です。特に環境因子は大きく影響を与え、環境設定を適切にすることで廃用症候群を防げる、ということも分かりました。(前回の記事に書いた、自宅よりも動く環境になり被災前よりも元気になった高齢者の例)
 また、今回JRATは私が活動したAMDAが入っている避難所には介入をしなかった、とのことでした。AMDA医療チームにPTが入る前にJRATが訪問しリハ的な介入が必要そうな人の選別がされ、AMDAにPTが入ってから、そのPTに引き継がれたそうです。AMDAのPTは1か所で活動しており、他の避難所の状況はあまり知らなかったのですが、いくつかの避難所を回っているJRATから見ると、AMDAが入っている避難所は、衛生面・環境面・支援体制等が非常に整備され、「さすがプロの医療支援団体だなぁ」という印象だったそうです。
 今回の報告会で、AMDAで活動した自分自身の経験と、JRATから見た視点が融合できて、非常に勉強になりました。
 具体的な活動についても報告がありましたが、詳しく書くときりがないので、また別の機会に紹介できたらさせていただきます。

2016年5月3日火曜日

熊本地震 緊急医療援助 理学療法士編

 4月14日から続いている熊本地震により、被災された方々にお見舞い申し上げると共に、犠牲になられた方々およびその家族の方々にお悔やみ申し上げます。一日も早い復興を願い支援させて頂きます。
 私は4月28日から5月2日までの5日間、熊本の益城町にある避難所で医療支援をしているAMDAのボランティアスタッフの一員として活動させて頂きました。AMDAの医療チームは医師・看護師・薬剤師・理学療法士・鍼灸師・介護福祉士・調整員等で構成されています。
 前任者として2名の理学療法士が避難所で活動しており、私がその活動を引き継いだ形です。前任者は避難者の中からADLの低い方、低下するだろうと予想される方に対して離床を促したり、離床しやすい環境の整備をして下さいました。生活環境の改善として、ベッドが必要な方に医療用ベッドや災害支援用の段ボールベッドを設置しました。数に限りがあるベッドなので、優先度の高い方にできるだけ使って頂けるように、医師と相談しながら、また周りの避難者に了解を取りながら、トラブルにならないよう行われました。
段ボールベッド
慎重に行う必要のある事として、特別な・数に限りのある物資を渡す時に「どうしてあの人にだけ?」と思われないようにする事です。不満を口に出されない方もいる事も念頭に置いておきます。
 同様に、理学療法的な介入のし過ぎには気をつけないといけませんでした。「なぜあの人だけリハビリの先生が毎日来るの?」となってはいけません。理学療法士のボランティアが一人や二人では避難所の数百人をみることは到底できません。また、地元の医療に徐々にバトンタッチしていく必要があるため、地元で今後受けられる理学療法以上の理学療法も行うべきではないでしょう。
 私が行った活動は、段ボールベッドの作成や、前任者が行った環境設定のフォローアップ、共有スペース(出入り口や通路など)に潜む転倒の危険のある場所の修繕、要介護者の離床の促しやレクリエーション、震災により骨折した避難者の動作指導などです。
段差解消
 他の団体から歯科医や栄養士、福祉用具などの支援も頂き、また近隣の老人福祉施設で要介護者の入浴もして頂きました。
栄養師ボランティアとAMDA医師・PTによる聞き取り
(避難者様の写真使用許可あり)
実際、避難所で初めて災害ボランティアとして活動して気づかされた事があります。活動前は避難者の廃用症候群・生活不活発病を防ぐことが必要だと思っていました。しかし、避難所では、排泄は少し離れた仮設トイレまで行かないといけない、そのために普段は使っていなかった階段を使わないといけない、など、自宅にいるときよりも活動量が増える例が多くありました。「家じゃベッドからほとんど動かなかったけど、ここ(避難所)じゃ、たくさん動くから、ばぁさん元気になった」なんて声も聞かれました。廃用症候群や生活不活発病などと言うものは、避難所にいる時よりも、今後、仮設住宅に入ってからの問題なのかな、と感じました。むしろ今は若い人も高齢者もオーバーワーク気味なのだと思います。
 疲労や脱水などによる体調不良の方や、腰痛・肩こり・頭痛などの症状の方が多く、鍼灸師の方がかなり忙しく治療をされていました。
医療チーム回診
今回の活動は、JOCVリハビリテーションネットワークのメーリングリストに流れたAMDAからの理学療法士募集を見て、応募したことから始まりました。このような災害時緊急医療援助をしている団体はたくさんあると思いますが、私はあまりまだこの分野は詳しくなく、今後さらなる情報収集をしようと思っています。
 私の活動はたった5日間で終わり、支援できたことと言えば、ほんの少しのことだと思います。しかし、小さなことの積み重ねで前に進んでいくものだと思っています。チームの医師が「ホームランは打たなくてよい、送りバンドをするつもり」で活動しようとおっしゃっていました。支援は永遠に続くのではなく、減っていくもの・終わるものであり、地元の力で復興できるようになるまでの繋ぎであることを学びました。なので、私ができたことは少しのことでしたが、被災者の方の喜ぶ姿を見ることができたし、役に立てたのではないかと思います。そして、私自身も医療や福祉の原点を見たようで、非常に勉強させていただきました。
 この活動は、被災地の避難所を借りて、させて頂いた活動であり、決してやってあげた、という活動ではありません。被災者の方々に感謝させていただきます。

<リンク>
AMDA http://amda.or.jp/
 理学療法士に関するAMDA記事
  速報9 http://amda.or.jp/articlelist/?work_id=4983
  速報10 http://amda.or.jp/articlelist/?work_id=4989
  速報11 http://amda.or.jp/articlelist/?work_id=4993
  速報12 http://amda.or.jp/articlelist/?work_id=4995
  速報14 http://amda.or.jp/articlelist/?work_id=5012
 FACEBOOKページ
JRAT 大規模災害リハビリテーション支援関連団体協議会

2011年5月30日月曜日

震災ボランティア

PT学会で販売されていたチャリティーTシャツ
 昨日、日曜日に、JOCV経験者で理学療法士の方が、震災ボランティアの報告や私たちにできることについてご講義いただくため、駒ヶ根訓練所に来ていただきました。大阪の方ですが、金曜日から開催されている第46回日本理学療法学術大会に参加されていましたので、宮崎県から遠路はるばるお越しくださいました。宮崎県から飛行機で一度東京まで飛び、その後バスで長野県駒ヶ根市まで来る、という経路で、土曜日の深夜に到着されました。そして日曜日の朝から勉強会を開いてもらい、お昼のバスで帰阪されました。もの凄くハードスケジュールです。今回のこの日程だけでなく、各地で行われているマラソンの救護ボランティアや、いろいろな病院などでのリスク管理勉強会の講師など、日々お忙しく過ごされています。友人の病院にも最近、連続講義で行っていただいています。今回は2時間強の単発講義です。
 講義の内容は、被災地の現状、JOCVのOBとしてできること、専門性に捕らわれないこと、笑いの力、など、隊員活動から繋がる今の活動についてお話いただきました。本当はそれぞれに2時間割いても足りないくらいの豊富なお話をお持ちなのですが、限られた時間でたくさんの内容を私たちに示していただきました。
 被災地に行くと、いろいろな仕事があります。靴を提供することで歩いていただく、情報が氾濫したホワイトボードの整理をする、床に敷いているビニールシートをガムテープで固定し躓かないようにする、談話スペースを作るなど、必ずしも専門性を持った活動ができる、というわけではありません。パッチアダムスの映画にもあるように、人を笑顔にするには自分の専門だけに固執してはいけない、という事が被災地では特に当てはまるのだと思います。また、勝手に行って、勝手に理学療法士を名乗って、勝手に活動することはできません。やはり、被災地にもシステム・ルールがあります。問題は一度出来あがったシステム・ルールは変えることが難しい、ということ。最初にきちんとしたシステムやルールができなければ、後になって修正することは困難です。最初にきちんとしたシステム・ルールを作るためには、日ごろからの良好な関連職種との連携、職能団体と行政との関係、職能団体自体のシステム構築が必要だと思います。それがあって初めて発言する力が産まれるからです。
 講師の方も災害ボランティアに参加するために、いろいろ情報が混乱しており苦労されていた様子でした。気持ちだけでなく能力がある人が、スムーズに活動に入れない理由には、システムの脆弱性、マンパワーの不足と疲弊など、さまざまな要因があると思います。これから派遣前の短い期間ですが、被災地でボランティア活動する仲間がいます。できることはなんでもして欲しいと思います。しかし、自分たちは限られた時間だが、被災地の人たちはずっとそこにいる、ということを忘れないで欲しいです。入れ替わり立ち替わり来るボランティアからのちょっとしたストレスも積りに積もれば大きなストレスです。プライバシーの尊重や不用意な声掛けなど、気を付けていただきたい、と思います。特に若い人には。

2011年3月19日土曜日

東日本巨大地震

 この度、東日本で起きている大地震で被害に遭われた方々には、心よりお見舞い、ご冥福をお祈りいたします。1日も早い復興を目指すべく、私たち国民ができることを、みなが真剣に考えなければならない時だと思います。
 2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とした巨大地震が発生し、現在も余震や二次災害などで被害は広がっています。地震発生時、私は仕事中で、患者さんと一緒に歩いていました。「地震だ」という声が聞こえましたが、歩いている最中で揺れには最初は気づきませんでした。揺れよりも先に、天井や壁などから「ミシミシ」と軋む音に気がつきました。隠れるところがなかったので、近くにあったクリップボードA3サイズを患者さんの頭の上に乗せましたが、事なきを得ました。
 地震後、時間とともに被害状況が明らかになってきて、その被害規模の大きさに日々驚かされています。入院中の患者さんは、地震のニュースしか流れないテレビを毎日、ずっと見ており、精神面で不調をきたしている方もいます。被災していない方が、被災者に対して何かしなければという責任感、しかし何もできないという無力感で板ばさみになり、それに追い討ちをかけるように被害の状況が繰り返しテレビで流れている今。気分が落ち着かない、胸がドキドキして治まらない、地震の恐怖が頭から離れない、そのようにお感じの方はテレビを一度消しましょう。
 災害発生初期には、病院は外傷患者でいっぱいになります。外科系の医師、看護師が大忙しとなります。また、メンタル面でのサポートも初期から必要になります。精神科医師や心理士、臨床心理士、また場合によっては牧師さんやお坊さんも活躍します。避難所や仮設テントなどで生活する人に対しては、生活するために必要な設備にアクセスできるかが重要です。例えばトイレに誰でも行くことができるか、という問題があります。仮設トイレに洋式トイレがなければ足の不自由な方は使用できないことがあります。また洋式であっても仮設トイレは2段ほど段を上がらなければならない場合が多いので、それが障壁になってトイレに行けない人もでてきます。また、そもそもトイレまでが遠い、トイレまでの道が整備されていない、などでトイレにアクセスできない人が現れると問題です。
 トイレだけではなく、配給所へ行けるかどうか、体調の異変をだれかに訴えることができるか、など様々な問題が生活をする上ででてきます。このような生活を障害する因子を取り除くために、環境を改善したり、ルールを作ったり、代替手段を提案したり指導したりすることが、災害発生初期からの理学療法士や作業療法士の役割だと思います。
 復興が進んでくれば、家庭復帰や職場復帰のための支援が理学療法士・作業療法士の役割となると思います。
 しかし、私は今大阪にいます。ここで今、私ができることは何なのか。募金なのか?ボランティアなのか?ブログで情報を発信することなのか? ただ、間違いないことは人に迷惑をかけないことだと思います。買いだめの問題。節電の問題。・・・
 この動画を見てください。
 日本人なら大丈夫だ!そう思いました。

2011年2月11日金曜日

ヒロシマ

 広島は水の都として発展・近代化された都市で、学都でもあり軍都でもありました。今でも珍しいT字型の橋、相生橋が作られ、戦前から電車が走っていました。また、陸軍の第5師団が置かれ、日清戦争や日露戦争など、戦争のたびに軍用地は拡大されていきました。日清戦争の際には、明治天皇と大本営headquarterが広島にやってきて、当時の広島は日本の臨時首都のような役割を担っていたそうです。
明治時代から軍事教練が始まり、幼稚園から戦うことを教えられていました。幼稚園児にも教えているくらいですので、当時は女性にも軍事教育がなされていました。昭和に入ると中学校以上の学校に現役の将校が配属されて学生に訓練をさせていたそうです。昭和14年にはこの軍事教練は男子の義務となりました。宇品港と呼ばれる港から多くの若者が出兵していきます。
 極秘の原爆製造計画「マンハッタン計画Manhattan Project」が1942年8月に始動し、1944年9月に日本に投下することが決まりました。いくつかターゲットとなった都市があり、その中にもちろん広島も含まれていました。ターゲット都市に対して、1945年5月、空襲禁止の命が出ました。理由は、原子爆弾の威力を正確に知るため、および、投下目標点を目視できるよう空気を汚さないため、だったそうです。そして、8月6日午前8時15分、無警告で落とされた原子爆弾が地上600mの上空で爆発しました。投下目標点は特徴的な形をした相生橋でした。
 直後から赤十字国際委員会のジュノー医師などが救護活動を開始しました。彼は当時不足していた医薬品などをGHQから大量に取り寄せ、救護活動に貢献した医師の一人です。1947年にはアメリカがABCC:Atomic Bomb Casualty Commissionを立ち上げ、アメリカ人医師が診察を行い始めました。しかし、ABCCの医師は「診察はするが治療はしない」と強い批判を受けました。ABCCからの医師の興味は、原爆が人体に与える影響であり、治療するために来日していたのではなかったのです。
 原爆の威力を知るために空襲をしない、や、人体への影響を知るための診察、など人権を無視した酷い行動です。最近、この原爆によって傷ついた人を、イギリスのテレビ番組が笑い話に用いた、というニュースを目にしました。日本に原爆を落とすことを決めたのはアメリカとイギリスです。そのイギリスが今もこんな意識では、核は絶対になくならないでしょう・・・。

2011年2月3日木曜日

ナガサキ

 1月31日~2月2日まで、2泊3日でナガサキ・ヒロシマを巡ってきました。目的は、原子爆弾が対人に使われた世界唯一の国である日本について詳しく理解することです。原爆が落とされた順番とは逆ですが、長崎から行きましたので、長崎で学んだことから先に書きたいと思います。
 飛行機で長崎に行き、昼食に佐世保バーガーを食べた後、長崎原爆資料館に13時頃到着しました。予定より遅く到着しました。理由は、めったにないという積雪によるバスの運休です。地元の人いわく、全く雪を見ない年もある、というのに、私が行った日に限って雪が積もっていました。
 さっそく入館料を払い、ノートを取り出し、最初のパネルからじっくり見て回りました。ボランティアガイドさんが声をかけてくださり、最初から最後まで丁寧に説明してくれました。これには感謝感激でした。閉館までみっちり勉強できました。
 写真でしか見たことがなかった原子爆弾「ファットマン」の実寸大の模型を見て、最初は「意外に大きいなぁ」と思いました。(原爆の威力、恐怖についてあまりにも理解が乏しかった証拠だと思います。)しかし、被害について詳しく知っていくと、「これっぽっちの爆弾で・・・」と感じてきました。ひとつの爆弾が、長崎の人口の半数をも死傷させたと思うと・・・ 一瞬で全てのものを吹き飛ばしたかと思うと・・・ 胸がつまる思いでした。
 その原爆に、皮肉にも日本人が開発した「八木アンテナ」が使われていた、と知るとなんだが切なくもなりました。地上から500mの上空で爆発させるための高度センサーだったそうです。写真は、爆心地から上空を見上げたものです。この上空で八木アンテナが反応して爆破のスイッチが作動したのです。
 近くに長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)があり、ここも被害に遭いました。しかし動ける医師、看護婦は直後から懸命に救護活動にあたったそうです。しかし、次から次へと運び込まれる患者に対して、限りある物資。消毒液やガーゼ、包帯はすぐに底をつき、処置も受けずに帰っていく人々も多くいたそうです。
 救護活動にあたっていた放射線科(当時は物理的診療科と言われていた)の医師、長井隆は原爆投下前から、仕事で大量の放射線を浴びており、慢性骨髄性白血病を発症していました。それでも救護隊として第一線で活躍し、その時のことを多くの著書(17冊)に書き記しています。私は彼に関する資料館へ行き、彼に関する本も購入しました。(この旅でたくさんの本を買いました。)長崎県の第1号名誉市民でもある長井医師のもとに、ヘレンケラーも訪問され手紙を残していったそうです。
 原爆資料館、長井隆資料館、平和公園を見て周り、悲惨な戦争の様子を目の当たりにしました。暗い気持ちになりました。そこで、通常の観光もしてきました。稲佐山の頂上からの夜景や、坂本竜馬の亀山社中跡、長崎港などをオリンパスペン片手に回りました。近々、フォトパス(左コラム参照)にアップしようと思います。

2011年1月8日土曜日

ヒロシマ・ナガサキ ~日本とは~

 今月末に、有給消化も兼ねて、広島と長崎を訪れようと思っています。日本で最も有名なヒロシマ・ナガサキへ。私は日本人という国籍を持ちながら日本について知らなさ過ぎると以前から感じていた、その劣等感を少しでも払拭しようという旅です。
 日本について、海外の子供たちは学校で、「核兵器が実践で初めて使用された国」だと教わるのだそうです。ヒロシマ・ナガサキという2つの都市を学校で習うのです。日本人、特に若い世代に、「日本を象徴する都市はどこ?」と聞けば何と答えるでしょうか? 秋葉原?梅田? 「日本を象徴する物は何?」と尋ねたらどうでしょう? 新幹線?アニメ?サムライ? おそらく海外に出て、日本人が考える日本と、外国人が考える日本には大きなギャップがある、と感じた同世代の人たちは多いと思います。

 「日本とはどういう国ですか?」

 この問いを今後、避けて通ることは決してできないでしょう。簡単にでも答えられるように準備するため、実際に自分の足で歴史的な地を訪れ、自分の目や耳で情報を得る努力をしようと思います。そのaction planが原爆投下都市への訪問です。